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椿井町(近世〜


 江戸期~現在の町名。江戸期は奈良町の1町。北方触口支配に属する。江戸期は奈良町の南西部に位置し,角振町の南,東城戸町の北,餅飯殿町の西の街区。北端を率川が西流する。地名の由来は,「平城坊目考」では辻より東の南側人家の裏にある椿井という井戸によるとあり,「奈良坊目拙解」には昔椿井【ちんせい】寺という寺があったことによると記す。天正19年~元和年間頃まで奈良惣中の算用などを取り扱っていた櫃本【はこもと】といわれる親町の1つ。貞享4年の「奈良曝」では本椿井町・横椿井町・江戸屋町の3町に分かれ,本椿井町は「町役四十壱軒,此町の小名椿井町・江戸屋町以上三町合て町役四十一軒なり」とあり,本椿井町は南北通り,横椿井町は「本椿井町の北の四つ辻をひかしへ入町,此町よりひかしへ出れば餅飯殿町」で,江戸屋町は「本椿井の町より西へ入町,此町より西へ行けば小川町」であった。「奈良坊目拙解」にはさらに「西裏町南北俗曰元三【がんざ】町」と見える。天正13年豊臣秀長が郡山に入部すると当所西側に代官所が置かれ,井上源五が代官となる。慶長8~9年に幕府代官大久保長安の時に高天市村内に移転した(庁中漫録・奈良坊目拙解)。慶長18年の中坊古屋敷水帳写(天理図書館保井文庫)には,ゑとや与左衛門・なへ屋忠蔵・大かや喜右衛門・きぬ屋新八・石井九兵衛・はんどうや浄閑・いかや助右衛門・おかや甚五のいずれも表口4間余・奥行51間余の屋敷をはじめとして,ひらのや太郎兵衛・へにや新吉・くれや仁右衛門などの屋敷が見え,当町の門閥商人が代官所の跡地を拝領していたことが知られる。文禄年間~慶長年間頃には民家が東に延び,一部は餅飯殿町裏手の空地に及び横椿井町となる。寛永8年の役家数42(奈良市史通史3)。元禄2年の家数52うち号所3(春日御廊承仕1・東大寺八幡禰宜2),竈数99うち大家30・借家69(奈良惣町中諸事覚帳)。寛文10年奈良町北方二十五町家職改帳(県立図書館藤田文庫)によれば,家数50で,うち町中屋敷が2軒で4人の借家人が住み,大家は40人で他町居住者8人,借家人は58人,職業別では晒布商売9・晒布問屋1・晒布数合1・生布商売3・生布数合4・生布中買1・縫物4・布織4・数合1・苧うみ1・布中買1・絹商売1・魚屋2・飴売1・青物売1・豆腐屋2・柄巻屋3・刀脇差金具細工3・刀鞘師2・竹皮商売1・箔屋1・桶屋1・笠張1・油屋1・塗師屋4・墨屋3・表具屋1・鍛冶屋1・大工1・料理人1・医者1・質物取1・唐物道具商1・能役者2・町の夜番1・不詳2・日用取11・京都飛脚1・京上下1・江戸上下1・大坂上下1,晒布・酒商売2,晒布商・笠物取1,酒屋・笠物取1,酒糀・味噌商売1となっている。貞享4年の「奈良曝」には町年寄石井九郎兵衛,医者飯田春庵,金春小鼓大蔵長右衛門・大蔵重兵衛,曝蔵方会津屋重兵衛・小泉屋五郎兵衛・松葉屋源三郎,曝問屋方会津屋長左衛門・ひたや庄兵衛,酒屋方きくや長左衛門,両替屋大こくや五兵衛,油屋おかや一郎兵衛,曝数合2・呉服屋2が見える。宝永年間町代高木又兵衛諸事控(県立図書館藤田文庫)では,医師の井海玄伯・長谷川玄貞,江戸酒屋菊屋長左衛門,晒蔵方の丸屋長兵衛・丸屋九兵衛・大黒屋七兵衛・島屋弥兵衛,晒布問屋ひた屋庄三郎,墨屋の大島豊前・藤田大隅,質屋松阪屋新介,米屋1・旅籠屋1が知られる。享保14年の役家数42軒,家数40うち御廊承仕号所1・東大寺八幡神人号所1・石井九郎兵衛居屋敷1,竈数60うち大家38・借家22(奈良佐良志)。文化4年2月17日老中安藤対馬守は奈良町を巡視したおり,当町の松井和泉(古梅園)の所に立ち寄り「御用墨細工場」を見学している(御番所日記)。町会所には薬師仏像と椿井寺銘額がある(奈良坊目拙解)。当町西口の長さ2間2尺・幅1間の板橋は寛文2年,北の長さ2間2尺・幅2間の板橋は同5年,当町により架け改められた(奈良町中橋之覚)。横椿井南側は御霊神社,横椿井北側は氷室神社の氏子区域(南都年中行事)。明治9年漢国町の陶化舎第六番小学を当町に移し,椿井小学校と改称。敷地は酒造家の菊屋長左衛門の旧地をあてる。同17年の「大和名勝豪商案内記」には,古梅園墨製造所の名が見える。明治22年奈良町,同31年からは奈良市に所属。明治28年奈良貯蓄銀行開設,同36年解散(南都銀行史)。明治34年奈良麻布蚊帳同業組合結成(奈良の近代史年表)。大正8年椿井中央市場が公認され(奈良のあゆみ),同10年24人の市場商人により商進会が結成された。昭和13年の世帯数100。同38年の世帯数138・商店数53(奈良市史)。同55年の世帯数99・人口312。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7400834