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額田部(古代)


 大和期から見える地名。古くは山辺郡に属したが,のち平群【へぐり】郡のうち。①額田邑。仁賢紀6年是歳条に「日鷹吉土,高麗より還りて,工匠須流枳・奴流枳等を献る。今大倭国の山辺郡の額田邑の熟皮高麗は,是其の後なり」と見える。「姓氏録」大和国諸蕃には「額田村主」が見え,「呉国の人,天国古自り出づ」と伝承する。坂上系図所引「姓氏録」逸文にも「額田村主」が見え,仁徳朝に来帰した子孫と伝えられる。大安寺の平城京移建を指導し,俗姓額田氏で添下郡出身と伝承される道慈は額田村主氏出身とも考えられる(続紀天平16年10月辛卯条)。②額田。「万葉集」巻10に「沙額田の野辺の秋萩時なれば今盛りなり折りてかざさむ」(2106)と詠まれ,その台地状の地形は同巻2に「妹が家もつぎて見ましをやまとなる大島の嶺に家もあらましを」(91)のように「大島の嶺」すなわち島のように浮かぶ丘陵と表現されている。ただし,後者については異説もある。また天平宝字元年橘奈良麻呂の乱に際し,佐伯古比奈は勘問され,賀茂角足が高麗福信・奈貴王・坂上刈田麻呂らを「額田部宅」に宴し,これらの人々を謀反に参加させないようにしたことなどを述べた(続紀天平宝字元年7月庚戌条)。ちなみに鎌倉中期に成立した「聖徳太子伝私記」(続々群17)によると,聖徳太子が建立したと伝承される46か寺の1つに「熊凝寺」が見え,「同(大和)国平群郡額田部郷額田寺(今額安寺也カ)今大安寺之本寺(也カ)」と記される。熊凝寺は推古天皇が病臥中の聖徳太子を見舞いに飽浪葦墻宮へ田村皇子(後の舒明天皇)を遣わした時太子が田村皇子へ譲った道場。舒明天皇はこれを受けて百済川の側に子部社を切り開いて寺(百済大寺)を新造,やがてこの事業は皇極・天武天皇にも引き継がれ,天武天皇2年百済から高市に移り(高市大寺),同6年には高市大寺を改めて大官大寺と号するに至る(天平19年大安寺資財帳/寧遺中)。同寺の位置については,平群郡にあるとする説(三代実録元慶4年10月20日条)や摂津とする説(七大寺巡礼私記)がある。熊凝寺(額安寺・額田寺)が大安寺の前身とされたのは,大安寺(大官大寺)の平城京移建に功があった道慈が俗姓額田氏で添下郡出身とあり,後世の「額安寺別当相伝次第」によれば道慈が額安寺の本願とされているところから,大安寺の前身である熊凝寺の伝承と額田氏の氏寺である額田(額安)寺の寺伝が道慈により結びつけられたものとする説がある。ただし両寺が伝承上結びつけられるようになるのは早くとも平安期以降のことである。なお「元亨釈書」や「延暦僧録」にも「額田寺」の寺名が見える。天平宝字5年以降の成立とされる額安寺所蔵額安寺伽藍并条里図(荘園絵図聚影)によると,額安寺の寺院地は10条3里の35・36坪,10条4里の1・2・11・12坪の6か坪を占め,西方は金堂・塔・講堂・僧房などの中心伽藍,東方は東大衆院や倉のある雑舎となっている。これらは塀で囲まれていて,雑舎院の南には別区画で南院と馬屋がある。寺院地は東西に長く,寺地の合計は5町1段余に及んでいる。なお同図の9条3里26坪には「船墓〈額田部宿禰先祖〉」という注記が見え,同寺が額田部氏の氏寺であったとする推定を裏付ける。「姓氏録」によれば,額田(部)を称する氏族として,平群系(河内国皇別額田首),天津彦根系(大和国神別額田部河田連・左京神別下額田部湯坐連・左京神別下額田部,河内国神別額田部湯坐連),明日名門系(左京神別上額田部宿禰・右京神別上額田部玉,山城国神別額田部宿禰,摂津国神別額田部宿禰・摂津国神別額田部),伊香色雄系(山城国神別額田臣),呉国人天国古系(大和国諸蕃額田村主),春日系(大和国皇別布留宿禰)の6系統が見え,とりわけ天津彦根系(古事記天安河誓約段・神代紀第7段一書第3)と明日名門系の2つが有力である。当地は大和を流れる諸河川の合流点という交通上の要地に位置し,天津彦根系と推定される額田部連氏はその水運を掌握していたことにより,外国使節の掌客に3度も任命されている。すなわち欽明天皇22年額田部連は葛城直等と新羅貢調使の掌客となり(欽明紀22年是歳条),ついで推古天皇16年額田部連比羅夫は遣隋使小野妹子とともに来日した隋使斐世清を,三輪山のふもとの海柘榴市の衢に飾騎75匹を従えて出迎え(推古紀16年8月癸卯条・隋書倭国伝),同18年にも新羅・任那使の入京時に荘馬の長となっている(同前18年10月丙申条)。天武天皇13年額田部連氏は宿禰姓を賜っている(天武紀13年12月己卯条)。なお天平宝字2年に至り正六位上額田部川田連三当に対して外従五位下を授け,額田部宿禰の姓を位記に書してこれを賜ったと見える(続紀天平宝字2年7月丙子条)。天暦6年11月25日安岑高村家地売券(吉田文書/平遺264)に,額田部茂業は平群郡大領兼惣行事とある。現在の大和郡山市額田部北町・額田部南町・額田部寺町を中心とする地域に比定される。③額田里。「紀氏家牒」(無窮会神習文庫所蔵本玉簏73)に,平群真鳥大臣の弟額田早良宿禰の家は「平群県額田里」に所在し,父姓によらず母氏の額田首の姓を称したとある。「姓氏録」河内国皇別の額田首条にも「早良臣と同じき祖。平群木兎宿禰の後なり。父の氏を尋がずして,母の氏の額田首を負へり」と見える。平群真鳥大臣は仁賢天皇の崩後,謀叛の疑により誅戮され,その類は子弟にまで及んだと伝承され(武烈即位前紀),おそらくこの追求により,一族の者は平群姓を避けて母姓を称することになったと推定されている(平岡市史1)。④額田郷。「和名抄」平群郡六郷の1つ。高山寺本は「奴可多」,東急本は「奴加多」と訓む。鎌倉中期に成立した「聖徳太子伝私記」(続々群17)によると熊凝寺は「平群郡額田部郷」に所在するとあり,延久2年の雑役免帳には,「額田部郷」が額安寺西方の9条4里にあり,「額田部東郷」は9条2・3里,10条3~6里,「額田部西郷」は10条5・6里,11条5~7里に見える。郷域は現在の大和郡山市額田部寺町付近を中心に東は同市長安寺町から西は安堵町窪田に至る地域に比定される。なお,額田部東郷・額田部西郷は鎌倉期頃までは地域名称として地字標示などに使用された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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