吐山(古代〜

平安期から見える地名。山辺郡のうち。①土山荘。興福寺雑役免(進官免)荘園。延久2年の雑免帳に「土山庄五町六反三百歩」とある。荘田畠は公田畠1町6反300歩・不輸免田畠4町からなり,不輸免田畠はすべて興福寺維摩会蕗免田であった。荘田の坪付には「寒川里」「土山里」などの地名が見えるが,正確な比定地は未詳。寒川は現在の都祁【つげ】村相河にあたる。②吐山。興福寺寺門領。「中臣祐賢記」文永4年8月13日条に「田⊏⊐(原郷民張)本トシテ七ケ所ヲ催テ,ハヤマトサホ河トヲ依盗人事,明暁可焼失之由聞候」とあり(春日社記録2),東山内の田原郷民の当地への発向を制止するよう,興福寺大衆から春日社神主に申し入れている。応永6年正月18日付興福寺段銭段米帳(春日大社文書4)に山辺郡の寺門方荘園として「葉山 二十五町三段大」と見えるが,これと平安期の雑役免との関係は未詳。室町期に入ると土豪吐山氏の活動が知られる。吐山氏の本姓は藤原。あるいは長谷川ともいう(大和志料上)。大乗院に見参しその縁故で朝廷に推挙されて,吐山藤原宗秀が対馬守,吐山峰藤原家生が加賀守の官途を得ている(寺社雑事記文明4年1月14日・7年8月5日条)。吐山峰は一族の庶家。応仁・文明の乱以降,大和国衆は管領畠山政長与党の筒井・十市らと河内の畠山義就与党の越智・古市らの2陣営に分かれ,東山内にも戦乱が及んだ。吐山氏は当初筒井方に属した。文明17年暮から同19年初頭にかけて,吐山氏は東山内に入った筒井方の軍勢や宇陀郡の沢新助らの援助を得て,上笠間ら越智・古市方の支援をうける土豪多田氏と抗争を繰り返した(同前文明17年12月18日・18年9月5日・19年1月13日条)。文明19年4月に越智方が撤退すると,吐山の勢力は伸張し大乗院門跡から白石荘代官に任じられ,年貢の沙汰にあたった(同前長享2年8月12日・11月5日条)。ところがこの頃吐山氏惣領の藤満は越智方に款を通じ,越智方の命令と称して宇陀郡萩原荘を押領,興福寺六方代官を追い払った(同前延徳3年2月24日条)。興福寺では六方衆が学侶と同心して,吐山へ発向する連署神水をしたり,南円堂で吐山調伏の祈祷を行った(蓮成院記録延徳3年3月・4月条)。このため吐山一族内で分裂が起こり,内衆の吐山峰源四郎らが一味して,惣領藤満を討取ろうとする動きが起こり,藤満と代官桑谷らは土豪小夫氏の館に落ちのびた。こののち六方衆は当地に入部,吐山城の屋1宇と代官桑谷の住屋に放火し,吐山一族と地下人から皓文(起請文)を徴して帰還している(同前延徳3年6月条,寺社雑事記延徳3年6月9日・同15日条)。吐山峰は小山戸氏ら筒井方土豪の後楯を得ていたものと思われる。藤満は小夫氏と心変わりした地下人らと協同して,いったんは吐山峰らを追却し吐山の地を奪い返したが,ほどなく峰らの夜襲を受けて城を捨てた。翌年藤満は再度小夫氏ら越智方の山内土豪を相語って押し寄せ,城を奪還している(蓮成院記録延徳3年7月・11月・4年10月条,寺社雑事記明応元年10月5日条)。「一家押分し,及数度不慮之子細」と評されたこの争奪戦は東山中における畠山政長党と義就党の抗争に深く関わっている。永正3年には細川政元家臣赤沢朝経が大和に侵入。大和国衆は一揆を結んで応戦した。吐山氏も筒井氏に属したが,大和国衆は敗北し筒井方は当地に落ちのびている(多聞院日記永正3年8月24日条)。戦国末期織田信長の勢力が大和に及ぶと,吐山氏もその配下となり,天正4年には石山本願寺攻略に参戦している(同前天正4年5月3日条)。吐山氏の拠った吐山城は,現在の都祁村吐山字城山の山頂と東北の尾根に遺構を残す(日本城郭大系10)。吐山氏はまた来迎寺(現都祁村来迎寺)壇越の一員(来迎寺記/大和志料上)。現在の都祁村吐山の春明院は氏寺。春明院の本尊阿弥陀如来像は藤原末期の作といわれ,境内には吐山氏の墓碑が並立している。また中世この寺を護持した天台宗の一如尊尭上人の五輪塔もあり,「天文十三甲辰五月四日寂」と刻されている。春日神社には神宮寺の什物として元徳2年書写された大般若経600巻,法華曼荼羅図などが所蔵されている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7401696 |