有田郡

「延喜式」紀伊国七郡の1つ。奈良期には阿提(安諦・阿氐)郡と称したが,「日本後紀」大同元年7月7日条に「改紀伊国安諦郡,為在田郡,以詞渉天皇諱也」とあり,当時の平城天皇の名「安殿」に近いことから「在田郡」と改称された。「続日本後紀」承和15年5月15日条には「紀伊国在田郡為上郡,以戸口増益課丁多数也」とあり,戸口の増加をもって上郡とされた。戸令によると上郡は12里以上とされており,「続風土記」は下郡(4里以下)の誤りとする。「延喜式」神名帳には「在田郡一座〈大〉」として「須佐神社〈名神大,月次,新嘗〉」が記されている。「和名抄」には当郡の郷名として吉備・温笠・英多・奈郷・須佐の5郷をあげている。吉備郷は現吉備町付近,温笠は現湯浅町付近,須佐郷は現有田市の須佐神社付近と考えられるが,他の2郷は定説がない。郡内に条里制が施行されていた可能性は,建久4年9月日の阿氐河荘定田地子検注目録案(高野山文書/大日古1-6),建治3年12月21日の寂楽寺宝蔵物紛失状案(同前/平遺補166)所収の石垣上荘の坪付,弘長2年3月日の施無畏寺寺領坪付注文(施無畏寺文書/県史中世2)に見える坪付の記載によってうかがえるが詳細は不明。奈良期以来牟婁湯・熊野への交通路は当郡の西部海岸近くを南北に通っている。平安中期~鎌倉期には上皇や貴族などの熊野参詣がさかんとなり,「大御記」「中右記」「明月記」などにその様子が記されている。「明月記」では熊野道は海部郡の加茂谷から蕪坂を越え,有田市域では蕪坂塔下王子・山口王子・宮原昼養所・糸我王子,糸我峠を越えて湯浅町域では逆川王子・湯浅御宿・久米崎王子,広川町域では井関王子・ツノセ(川瀬)王子・鹿ケ瀬峠を経て日高町域に入っている。平安期に見える荘園には,阿氐河荘・石垣荘・下野荘・田殿荘・広荘・藤並荘・宮崎荘・宮原荘・保田荘・湯浅荘などがあり,宮原荘・田殿荘・石垣荘などが熊野参詣の雑事を勤仕した。石垣荘は延喜2年の荘園整理令以前からの荘園で,天慶9年左大臣藤原仲平は石垣荘を上・下に分けて譲与している。その後平惟仲は正暦3年石垣上荘を買得するなど,翌4年には石垣上・下荘および下野荘を領有している。このころから石垣上荘は阿氐河荘,同下荘は石垣荘と称されるようになり,長保3年惟仲は阿氐河荘を京都白川寺喜多院(のちの寂楽寺)に施入,石垣荘・下野荘は女子一期ののち喜多院領とするよう定めている。ついで寂楽寺は本家職を園城寺円満院に寄進した。一方高野山は寛弘元年,阿氐河荘がいわゆる「御手印縁起」の四至内にあると主張して円満院・寂楽寺側と争い,元暦元年には鎌倉幕府の力を借りて解決しようとしており,鎌倉期には地頭湯浅氏も加わって三つどもえの争いがくり返された。その他藤並荘は摂関家領と推定され,宮原荘は勧学院領,保田荘は摂関家領であり,摂関家にかかわる荘園が多い。郡域は現在の金屋町・吉備町・清水町・広川町・湯浅町に初島町浜・初島町里を除いた有田市を加えた地域に比定される。なお現在の伊都郡花園村域は,江戸期の「高野春秋」では阿氐河荘内と記しており,地形的にも当郡内に含まれた可能性もあるが未詳。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7403191 |