100辞書・辞典一括検索

JLogos

20

三里村(近代)


 明治22年~昭和31年の東牟婁郡の自治体名。土河屋【つちごや】・切畑・上切原・三越・大居・一本松・伏拝【ふしおがみ】の7か村が合併して成立。旧村名を継承した7大字を編成。役場を伏拝に設置。明治24年には戸数657,男1,620・女1,490,学校4,小船29。山村地帯で,物産は,米・麦・茶でほかシイタケ栽培,養蚕,薪炭の製造を行い,特に養蚕業は東牟婁の中心地であった。林業は,筏による木材の搬出に従事する者が多く,明治末期からは不況の際は中国と朝鮮の国境を流れる鴨緑江へ出稼ぎに出る者もいた。同39年木材川下税三里検査所が設置され,同41年新宮の検査所と合併。大正6年には三里村萩筏組合が結成された。道路は田辺~本宮間の熊野街道(中辺路【なかへち】)は早くから改修され,昭和22年国鉄バスが開通し,三里まで乗り入れた。新宮までの間は水運が主に利用され団平船で人員・物資が輸送された。大正9年プロペラ船が新宮~十津川村折立(奈良県)間に就航,時間が一挙に短縮された。川丈道路の国道168号は昭和33年に開通,以後輸送機関はバス・トラックにかわった。小学校は,明治35年三越小学校が開校,同45年伏拝小学校は三里小学校となり,同年大居・三越,大正13年には上切原がその分校となった。昭和22年三里中学校が開校。明治30年那智銀行三里支店開設,同44年伏拝に三里定期家畜市場ができている。大正14年四村川水力電気会社ができ電灯がついた。三越の道ノ川に点灯したのは昭和38年であった。明治11年萩郵便局が開局したが,一時廃局となり同35年再び開局,同41年電信事務を取り扱い,昭和12年電話が開通した。災害は低地の伏拝の萩地区が昭和8年三越川の氾濫で水害にあっている。同28年7月18日の水害は,水位9.67mに及び全壊23戸・流失37戸の損害を出している(県災害史)。萩は人家密集のため火災が多く,大正3年28戸全焼,昭和7年24戸全焼,竹の本地区も昭和31年7戸全焼の火災がおこっている。明治42年戸数725・人口4,469。世帯数・人口は,大正9年862・3,900,昭和10年727・3,295,同25年814・3,841。同31年本宮【ほんぐう】町の一部となり,村制時の7大字は同町の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406627