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牟婁郷(古代)


奈良期~平安期に見える郷名「和名抄」牟婁郡五郷の1つ伊勢本・東急本では「无呂」と見える初見は平城宮跡出土木簡に「□(紀カ)伊国牟婁郡牟婁⊏〈⊏⊐□杲十□天平十七年十月〉」とあり(県史古代1),当郷の人が固型塩を10顆都へおさめたことが考えられる(田辺文化財21)なお当郷は田辺湾岸地域にあたると思われ,この地域は縄文時代,弥生時代,古墳時代を通じてこの地方の中心地域で,瀬戸遺跡(白浜町)では県内でもっとも古い弥生式土器を出土しており,牟婁郡では古墳の数が群を抜いて多く,その外形や内部構造などには紀南独特の形態がある平地や丘陵ではなく,海岸の岩陰に石室もしくは石棺を設けたもので,磯間岩陰遺跡(田辺市),東白浜岩陰遺跡(白浜町)が代表例として知られ,海岸沿いに多く分布するなお郷内にあったと考えられる牟婁津については,「日本書紀」斉明天皇4年条に「先づ宮室を燔きて,五百人を以て,一日両夜,牟婁津を邀へて,疾く船師を以て,淡路国を断らむ」と見え,斉明天皇・中大兄皇子らが飛鳥の都を留守にしている間に有間皇子が企てた謀反の記事が知られる牟婁津は,現在の田辺湾の中の田辺市会津川河口付近にあった港の1つと思われる平安初期に増基法師の記した紀行文である「いほぬし」には熊野参詣の途中で「むろのみなと」に泊まった旨が見え(群書18),そのころの「むろのみなと」のやや寂れた様子がわかる「牟婁津」とほぼ同じ場所を指していると思われるが「むろのみなと」は港を中心とした漠然とした地域を指しているとも考えられることから,現在の田辺市湊付近と推定されるなお,田辺市湊塔之内には松ケ谷遺跡があり,ここから平安期の和鏡,黒色土器,井戸遺構,木箸等が出土しており,平安期の集落跡であると考えられている(考古学11-9)また「万葉集」巻13には「紀の国の 室の江の辺に 千年に 障る事無く 万世に 斯くしあらむと 大船の 思ひたのみて 出で立ちの 清き渚に」と詠まれており(古典大系),この長歌は,大宝元年10月におこなわれた持統上皇と文武天皇の牟婁行幸に従駕した人の歌と思われ,室の江とは現在の田辺湾全体を指していると考えられるその他,「続日本紀」天平勝宝6年正月17日条には,遣唐副使吉備真備船が「紀伊国牟漏埼」に漂着したと記されている当地には古くから温泉があり「日本書紀」斉明天皇3年条には有間皇子が「牟婁温湯」に行ったことが見え,同書天武天皇14年条には,紀伊国司が「牟婁湯泉,没れて出でず」と述べた旨が見えるが,斉明・持統など諸天皇も当地の温泉に行幸しており,現在の白浜町の湯崎温泉にあたると思われるなお,「釈日本紀」にも「牟婁温泉・紀伊国牟婁郡歟」と見え,「続日本紀」大宝2年10月8日条には文武天皇が紀伊国に御幸の際,「車駕至武漏温泉」とあるその他,同温泉名は「類聚国史」など諸書に散見するが,「帝王編年紀」には「牟漏温泉」と見えるまた「日本霊異記」下巻には「牟婁の沙弥は,榎本の氏なり……紀伊の国牟婁の郡の人なるが故に,字を牟婁の沙弥と号く」と見える当郷の比定地は「続風土記」によれば「今の芳養・田辺・秋津・万呂・三栖五荘の地ならむ」と記し,現在の田辺市および上富田【かみとんだ】町の一部にかかる一帯といい「地名辞書」は田辺市の海岸沿い一帯から白浜町にかかる一帯付近に比定していることから,田辺湾岸の広大な地帯と推定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7406846