保田荘(古代〜

平安期~戦国期に見える荘園名。在田【ありだ】郡のうち。久安4年10月日の伊太祁曽社神楽免田注文(伊太祁曽神社文書/平遺2656)に「此外金峰山御領……保田庄弐町」とある。本文書は室町期の偽作と考えられるが,本文中引用の久安4年惣検注文は存在したとも考えられ検討を要する。平安末期の成立と推定される「執政所抄」(続群10上)には12月28日の冷泉院殿御忌日の所課として「被物一重〈保田〉」とある。下って建長5年10月21日の近衛家所領目録(近衛家文書/鎌遺7631)には請所の1つに「〈紀伊国〉保田庄〈冷泉宮領内〉」とあり,近衛家領として伝領されている。また,建暦3年2月日の慈鎮所領譲状案(華頂要略/鎌遺1974)には,山城常寿院領として「保田荘」が見え朝仁親王に譲られている。承久3年閏10月12日の関東下知状(高野山文書/大日古1‐6)には「可令早如元安堵紀伊国阿弖川庄・保田庄・田殿庄・石垣河北庄等地頭前兵衛尉宗光事」とあり,同年11月6日の六波羅執行状(同前)が下されている。この湯浅宗光は宗重の七男で保田氏の祖である。文治2年5月7日,源頼朝は湯浅宗重にその処分状に任せて子息らに配分することを認めており(崎山家文書/県史中世2),このとき宗光に処分されたものと考えられる。宗光は譲られた所領も多く,また承元3年8月28日には湯浅宗景の所領譲与およびその子宗弘の奉公について大江広元から宗光に報告されており(同前),惣領の地位にあったものと考えられる。ところが,阿氐河荘地頭披陳状并頼聖具書案に収められた承久元年9月16日の関東下知状(高野山文書/大日古1‐6)によれば,宗光は熊野神人の訴えにより配流され,所領は子の宗成に安堵されており,承久3年に至って元のように宗光に安堵されたのである。嘉禎2年8月7日の高弁遺跡率堵婆銘注文(施無畏寺文書/県史中世2)には「星尾」とあり「保田ノ庄河南ニアリ」と注記されており,当荘は有田川の両岸にまたがっていたことが知られる。この明恵上人高弁は宗光の甥にあたり,建長5年3月日の明恵上人紀州所々遺跡注文(同前),「明恵上人神現伝記」(紀伊国阿氐河荘史料1),「春日御詫宣記」(続群2上)などによれば,建仁3年高弁は星尾にあった宗光の旧宅で春日大明神の詫宣をうけ,春日・住吉両大明神の形象を図している。高弁没後の文暦元年,宗光の子宗業は父の屋敷跡に寺院を建立し,その約20年後の弘長2年4月25日には,寺域を改めて定め,「山河東西八町三段,南北八町九段」とし,堺内の殺生禁断および寺域内の地頭給の所当公事の免除を定めている(高山寺古文書)。そして弘長2年12月日の関東下知状案(神光寺文書/県史中世2),同年12月24日の六波羅禁制案(高山寺古文書)で幕府から認められた。なお「続風土記」によれば,有田市星尾字大谷にある神光寺は,この星尾寺6坊の1つ中ノ坊にあたるという。下って正応2年12月日の湯浅宗重跡本在京結番定文(崎山家文書/県史中世2)には「十二番 保田庄〈丸田・大崎・岩野川・阿弖河上方半分定〉十月三日まて」と見える。南北朝期の建武5年閏7月10日の足利将軍家御教書(御前家文書/同前)によれば,「紀伊国保田庄地頭職」が貴志二郎左衛門尉浄宗(行兼)に宛行われている。これは元弘3年7月10日の池田荘豊田村地頭職文書紛失状(湯橋家文書/同前)に「大塔宮祗候人保田次郎宗顕」とあるように,保田氏が南朝方であったことによるのであろう。その後貞治元年11月25日の沙弥道智(貴志宗朝)譲状写(御前家文書/同前)に「一,紀伊国 保田庄地頭職」とあり,当荘地頭職などが貴志朝綱に譲られている。そして康正元年10月28日の足利義政御前御教書(同前)によれば,貴志護吉の申請によって「保田庄替地」が宛行われている。正長2年7月5日に作成された歓喜寺領重書目録写(歓喜寺文書/県史中世2)に不知行分として「保田内野井宗家寄進状 一通」が見える。なお,江戸期の「高野春秋」の寛正元年正月1日条,長享2年10月12日条などに当荘名が見えるが,高野山花王院領となっており,元亨3年11月8日の藤原宗連田地寄進状(華王院文書/紀伊国阿氐河荘史料2)によれば阿氐河荘の誤りである。また「紀伊国旧家地士覚書」には「在田郡貴志,居住ハ辻堂村,領地ハ在田郡保田之庄六ケ村,田殿之庄十一ケ村之所ニ而,半分海士郡塩津村丁村ニ而御座候」とあり,戦国期貴志氏の所領であったことが知られる(大日料11‐14)。荘域は現在の有田市星尾・山田原・辻堂付近に比定される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7406888 |