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河村郡


関ケ原の戦の結果,伯耆国一国は駿河国府中から米子城主として入封してきた中村忠一の支配するところとなり,当郡もその所領となった。しかし,中村氏は慶長14年除封された。この後,当郡と久米郡には大名は配置されず,幕府直轄地となったと考えられ,伯耆代官山田五郎兵衛が支配し,代官所は久米郡倉吉に置かれたと思われる。慶長19年相模国小田原城主大久保忠隣の改易事件に連座して安房国里見氏が倉吉に配流された。安房一国9万石余と常陸国鹿島郡のうち3万石を領していた里見氏は,安房国を没収され,鹿島郡3万石の替地として倉吉を中心とする久米郡と当郡を与えるというものであった。しかし,実際に知行地として得た土地は倉吉に近い神坂村を中心としたわずか4,000石余の地であったといわれ(南総の豪雄),形式上は減封・国替であったが,実際は改易・配流であった。その後元和3年池田光政が因伯両国32万石の鳥取城主として入封し,寛永9年光政と池田光仲とが入れ替わるものの,以後明治維新にいたるまで鳥取藩領となる。石高は,拝領高2万1,146石余,「元禄郷村帳」2万2,727石余,「天保郷帳」2万5,312石余(新田改出高4,166石余),「旧高旧領」2万8,645石余。村数は「御領知目録」101,「元禄郷村帳」102,「天保郷帳」104,「旧高旧領」108。「天保郷帳」によると,小浜・筒地・石脇・泊園・宇谷・宇野・原・福永・北方・漆原・方地・白石・野方・藤津・宮内・中奥寺・久見・川上・高辻・方面【かたも】・別所・山辺・中尾・田畑・小鹿谷・引地・野花・長和田・佐美・羽衣石・埴見・門田・長江・上浅津・下浅津・赤池・南谷・上橋津・湊・光吉・水下・長瀬・久留・田後・清谷・福庭・海田・上井・山根・伊木・八屋・下余戸・上余戸・栗尾・大原・本泉・今泉・湯谷・牧・赤松・大柿・恩地・助谷・久原・曹源寺・穴鴨・加谷・木地山・下西谷・上西谷・四十曲・柏山・下畑・大谷・下田代・上田代・森・鎌田・吉尾・下谷・小河内・笏賀・柿谷・鉛山・大瀬・横手・山田・湯・砂原・余戸・波伯山・井土・吉田・高橋・西小鹿・東小鹿・神倉・中津・俵原・門前・坂本・片柴の諸村と松崎町からなる。松崎町は鳥取藩四着座の1人である和田氏が自分手政治を行い,その陣屋が置かれ,町方支配を受けた。文化年間以前の田畑1,649町余,また文久年間頃の軒数は松崎町分を除いて4,629(藩史5)。正徳・享保年間の宿駅は泊・湊・穴鴨・長瀬の諸村と松崎町に設置され,伝馬は泊村13疋・長瀬村11疋。制札場は,寛永9年泊村,万治2年泊・橋津・長瀬・穴鴨の諸村と松崎町に置かれ,正徳年間頃も同所にあった(藩史4)。寛永10年の大庄屋は,長和田村与助・松崎町市郎衛門(県史3)。享保17年の飢饉に際して,同18年粥米148石余が延べ24万7,710人に藩から支給され(県史3),文化8年には幕府の囲米令に対し橋津村に470石が囲い置かれた(藩史5)。また天保7年には,実質拝借米高が2,681石余に及んだ(県史4)。天保14年,物価騰貴に対して城下からの出商いを藩は禁じたが,当郡では泊村・長瀬村・湊村・湯村は除外され,在郷町として商業活動が許可された(県史3)。安政5年の大庄屋は椿岩助で,中庄屋は6人(藩史5)。同年在方改正に伴い上井村に郡役所が置かれ,また慶応3年には兵制改革により農兵隊1小隊が編成された(県史3)。安政6年砂鉄鉱山鉱夫による闘いと,万延元年小作料減免の騒動が起きている(県史4)。松崎町を除いた在方の村は,郡内を海岸寄りの里構と中国山地寄りの山中構に2分し,各大庄屋に支配された。当郡には泊・湊(橋津)・長瀬・湯村(三朝)の在町が発展したが,泊は戦国期の河口城址があり,伯耆街道に沿う伯耆入口となる要所として,制札場,宿駅,茶屋を置き,泊港には番所が設けられ,廻船問屋をはじめ各種の問屋があった。橋津は嘉永年間に湊村と改称,河村郡全体と久米郡の一部の貢米約2万石を収納する藩倉が置かれ,大坂への廻米積出港としてにぎわい,郡中随一の経済的機能を発揮した。物成の納所は,一部を倉吉御倉,大部分を橋津御倉へ行う。御立山が上井村に設けられ,山奉行が居住,享保10年には在吟味役会所,安政5年には郡役所を同村に置く。また天神川渡船場もあった。久原村に国境御番所を設け,人形峠を経由する人と物を改めた。郡内の産業は,羽合平野の農村で米作中心の農業が盛んであるほか,砂丘地帯の綿作生産は藩末の年間生産額が,綿6,482貫,木綿6万330反にのぼり,竹田川水系の三朝谷・加茂谷・竹田谷では,東伯耆最大の砂鉄採集と鈩【たたら】製鉄が行われた。この地の鉄山操業は穴鴨在住の安田家に負うところが大きい。同家は中世豪族の系譜をもち,本格的鉄山経営は慶長・元和期に始まる(安田家文書)。藩末の年間生産額は,銑560駄,鈿120駄,鉄880駄(藩史)。幕末から明治初年の寺子屋数29(藩史3)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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