長岡荘(中世)

鎌倉期~戦国期に見える荘園名。久米郡のうち。洞院家領。正和2年5月19日の山本太政大臣入道(洞院公守)美作国長岡荘田畠寄進状案(春日大社文書)と,同年月日の同人による社領寄進状写(大東家文書)に,「美作国長岡庄榑田・今市・横山内田三町,畠二町〈坪付別紙在之〉,任被申請,被寄進 春日社神領畢」と見え,鎌倉期には洞院家の所領として,延慶2年から正和元年の間に年貢300貫文が洞院家に納入されていたが,その一部の田畠5町が奈良春日神社へ寄進されたことが知られる。また正中元年12月日の春日社供目代某下知状案(春日大社文書2)によると,先の田畠5町は,因明談義料所として,毎年上分5貫文を送進することとしている。延文5年3月14日の足利義詮袖判下文(富田仙助氏所蔵文書)では,赤松貞範に対し,駿河や信濃の替えとして美作の所領を宛行ったが,その中に「同国(美作国)長□(岡カ)庄領家職」と見える。また康安2年6月27日の後光厳天皇綸旨(西園寺家文書/香川県史資料編古代中世史料)では北朝より洞院実夏に当荘が安堵されている。その後,守護勢力による侵害に悩まされたらしく,応永21年7月日の洞院(満季)家雑掌言上状(政部類記裏文書)によると,先年当荘は守護により半済がなされ,その際に洞院家は幕府から一円知行を認める安堵の御教書を得ていたが,実際には荘内の日吉免・春日免・肥尾村・押領家分の4か所は遵行がなされず浦上則宗が知行していたため,洞院家は,この4か所で半済分にあたるのに,さらに今年半済が課されたら,当荘は4分の1になるとして,半済停止を幕府に訴えている。この間の事情は不明であるが,嘉吉2年12月3日の室町幕府管領畠山持国奉書案(佐々木文書)によれば,京極持清が当荘を領していることが知られ,当地に対する押領停止と,持清への沙汰し付けを幕府から守護山名教清に命じている。戦国期と推定される年月日未詳の北野社々領目録写(北野神社古文書/広島県史古代中世資料編5)には,「美作国長岡庄藤原村五名」と見えるが,戦国期には守護勢力などによって違乱がなされており,「北野社家日記」延徳3年8月10日条所収,守護赤松政則と当所名主沙汰人宛の2通の同年5月6日の幕府奉行人連署奉書写により「美作国長岡藤原五名」の違乱停止が命じられているが,これでも違乱はやまず,明応2年9月28日条所引の同年8月15日の幕府奉行人連署奉書(同前)でも押妨停止を命令している。弘治3年5月14日の美作国献上記(美作古簡集註解下)には,久米南条郡3郷の1つとして「長岡庄 緩羅五疋 唐橋乙門」とあるが,同史料は検討を要する。元亀2年4月と推定される年月未詳29日の花房職秀書状写(美作古簡集註解上)では苔口宗十郎に当荘内の「をうと原(大戸原カ),栗子」が給付されている。また年月日欠の宗(苔口宗十郎か)宛宇喜多直家書状写(同前)に「兵糧米等之事を荒神山長岡辺へも可差遣分ニ而」とある。なお,永和3年11月23日の年紀を有する現在の津山市小田中の安国寺鐘銘(日本古鐘銘集成)に「大工長岡住百済源次」が見え,文明9年11月15日の年紀を有する現在の兵庫県相生市佐方の慈眼寺鐘銘に「作州長岡庄上福寺鐘也」とある(同前)。荘域については,史料中に見える藤原村・栗子・大戸原は現柵原町藤原・栗子・大戸上・大戸下に,肥尾村と長満寺は現中央町越尾【こよお】と長万寺に,横山は現津山市横山に,榑田は現津山市平福付近にそれぞれ比定されることから,現柵原町の吉井川右岸から中央町の皿川左岸までの地域と推定される。西は打穴【うたの】保と接しており,北は津山市街を東流する吉井川以南,南は備前との国境以北の地を含む広大な荘園と推測され,河川が主な荘境となっていたと考えられる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7418094 |