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中奥村(中世)


戦国期に見える村名備中国哲多郡新見荘のうち地名としては室町期から見え,寛正2年10月日の新見荘領家方年貢公事物等注文案(東寺百合文書ク)に「中奥分」として近吉名,末貞名以下15名の記載がある同3年と推定される9月3日の新見荘中奥百姓中申状(東寺百合文書え),同年と推定される10月14日および10月19日の新見荘高瀬・中奥百姓等申状(東寺百合文書サ)によると,同年は長雨による冷夏の害に加え,8月28日と9月2日の夜に大霜が降り新見荘の作毛は大きな被害を受けていたが,当村と高瀬村では特に被害が大きく,代官祐清に対して地頭分並みの免除を要求しているこれに対して,同年と推定される11月1日の新見荘代官祐清注進状(東寺百合文書ゆ)で東寺に対して「一,高瀬・中奥百姓等,損免之事申候て,御年貢を押候て,侘事仕候,我らこれにて,色々申候ヘ共,更承引不仕候」と,地頭方同様3分の2免でなければ頭足をもぎ取られても年貢は1銭も納入しない旨,高瀬・中奥の百姓が起請文を書き一味同心していると注進しているまた「里村百姓等・損免事申候しかとも,色々申候て,はや申伏候,高瀬・中奥之事,以外候間,如此申候,百姓のさのミの緩怠にてもなく候」ともあり,里村に比べて当地などの損亡は実際に甚しかったことが分かる領主である東寺は,同年と推定される11月28日の東寺書下案(同前)で「一,高瀬・中奥損免事,三分一之分,可有御免之由」と,代官の進言により3分の1免除を許す旨を伝えるが,同年と推定される12月13日の新見荘三職連署注進状(東寺百合文書ツ)によると,中奥・高瀬などの荘民の態度が強硬であるため半免を提言しているまた,同年と推定される12月13日の新見荘代官祐清書状(東寺百合文書え)では「一,高瀬,中奥損免事」とあり,当年分については半免分を収納したうえで東寺から代官・三職に対して百姓らには3分の1以上は免じられないところ半免とするのは,百姓と代官とが一体となっているからだという旨の責状を下してくれるよう要求しており,簡単には荘民側の損免要求に応じようとはしていない寛正4年の「最勝光院方評定引付」の3月17日条(東寺百合文書け)では,東寺も当地および高瀬の半損免を了承している同5年と推定される3月21日の新見荘上使本位田家盛・上総増祐連署注進状(東寺百合文書し)によれば,寛正4年12月には当地および高瀬の百姓「吉川」と「たそ衛門」が逃散するなど年貢・公事に関する紛争が相次いでいるこのときは三職の仲介もあり両者は翌5年2月には帰村した同6年と推定される3月22日の新見荘上使乗弁長祐書状(東寺百合文書ゆ)によれば,同年2月22日に東寺から派遣された上使長祐は早速納帳を調査し,未納年貢徴収のため三職,本位田家盛とともに当地および高瀬村へ入部したが,百姓らは困窮しているなどと弁解し年貢を納入しなかったためたびたび当地に足を運んだところ,ようやく40貫文分の割符4つを京進できることになったというまた,同年と推定される5月日の新見荘上使遣足注文(東寺百合文書サ)のなかには「(五月)廿日□五十文□中奥・高瀬御百性(姓)□酒」と見える応仁元年と推定される10月22日の新見荘三職連署書状(東寺百合文書ゆ)によれば,同年は特に畠の損亡が甚だしいなかで年貢の漆については「中おくより,夫お出候間,上せ申さす候」とあり,当地が夫役徴発を巡って代官・三職と対立していたことが知られる文明3年と推定される閏8月18日の新見荘田所金子衡氏注進状(東寺百合文書サ)によると,新見荘は同年幕府政所執事の伊勢氏に預けられ,代官として多治部氏が任命されたが,田所金子衡氏との対立により入部できない状況にあった同状で金子氏は多治部方の入部反対を主張したところ,同荘内里村では寄合を開き東寺とそれを支持する金子氏を見放して多治部氏の入部を受け入れようとしていた当地では金子氏の申入れによってかろうじて寺家を支持していたが,多治部方からも強硬な申入れがある中で金子氏も強く働きかけられない状態であるという当時新見荘は高瀬・中奥・里村の3地域に分けて考えられることが多く,同11年と推定される閏9月8日の新見荘三職連署注進状(同前)に「たかせ・中おく・里村,各申ヒ候」として所務代官の下向を願っており,明応2年と推定される正月11日の某書状案(東寺百合文書ゆ)に「一,高瀬・中奥・里三ケ村御百姓中,前も,近年多治部殿より,給分ニ被出,又者流不作,或者依有忠,被指置,是も減分,過分候」と村名で見え,当村内百姓層が多治部氏の被官となりつつあったことが分かる現在の新見市北部の坂本・千屋付近に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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