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寺原荘(中世)


 鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。山県郡のうち。寛喜3年9月8日の安芸国寺原荘作田所当米注進状に「寺原御庄」と見え,当荘は75町3反のうち,見作田は13町7反120歩であった。そのうち,除田は7町1反で,一宮長日供米田として伊豆房・福万・肥後阿闍梨各1町,村神免1町,預所・地頭・福光地頭・公文・散士に3町1反の人給田がある。このほか,応輸田6町5反120歩があり,応輸田からは所当米22石6斗2升9合8勺が納められた(新出厳島文書)。嘉禎5年正月伊都岐島社造廻廊注進状案に,2間を寺原が負担したことを記している(同前)。文永10年10月5日,僧覚実は子息周防親基に寺原荘内平田宮荘,同荘福光名内地頭給を譲った。これは平田女房凡氏女・平田高信から譲られたものであった。徳治2年正月25日,周防親基は当荘内八郎丸名田を平田信職に押妨されたが,下地を打渡されている。また同年7月16日寺原荘内宮荘地頭職について,周防親基の当知行が確認された。親経は,建武5年10月19日に寺原荘内平田の福光名を嫡子親家に譲った(吉川家文書)。観応元年6月8日,寺原において合戦があった。この時,北条治部権少輔・毛利親胤・吉川経盛・寺原時親らは寺原・与谷城にこもり,山形為継・壬生道忠らは猿喰山城にこもった。これに対し,北朝方の吉川実経・逸見有朝らは,これらの城をおとし,守護武田氏信は証判を与えている(小早川家文書など)。観応3年11月吉川経兼は寺原の陣に参り,武田氏信と戦った(吉川家文書)。文和元年10月19日,吉川実経は寺原城に先懸をした(同前)。貞治6年10月7日寺原安芸守は,「本領寺原庄・平田庄内福光名等地頭職」を武田氏信から安堵された。応安2年3月21日のたう親譲状に「寺原庄内ちかともよなとう名くにかね八反」などを「ミついち」に譲ったことを記している。また明徳2年4月23日の貞親証状に「あきのてらはらの御ほんりやう」とある。同年11月6日寺原代官道勢は,寺原内の詫摩氏の所領を打渡した(詫摩文書)。応永4年6月厳島社領注進状并管領斯波義将外題証判に「寺原郷」と見え,厳島社領として存続していた(巻子本厳島文書)。文明3年11月25日の足利義政御判御教書案によれば,山県郡内寺原郷などが勲功の賞として吉川経基に宛行われている。経基は,文明10年6月10日寺原郷南北三方からの段銭を納めている。延徳2年2月9日寺原和田固屋における吉川経為の功に対し,経基は桑原名などを与えた。永正6年閏8月19日の是経書状に「寺原辺の儀」と見える。天文11年6月18日大内義隆は,寺原を吉川興経に返付した。同15年7月6日の吉川氏宿老手日記に「寺原へ退く衆,寺原より此方へ退衆」とあり家臣の移動があった(吉川家文書)。同16年8月25日毛利元就・吉川元春は寺原の内光正5反を二宮木工助に安堵した(吉川家文書別集)。同19年2月16日元春は寺原内たい□名田1町1反を長和七郎右衛門尉に,同じくとちの木拘そとさかり1町,むしろ田1反を黒杭与次に,寺原内頼国名1町4反小・奥迫3反・とき田9反・小とき田2反を井上春勝に宛行った。また同年12月13日石彦九郎に寺原の内外曲1町を宛行った(藩中諸家古文書纂)。天正3年10月14日小鴨元清起請文に元春は寺原に逗留したことを述べている(吉川家文書)。同4年12月4日吉川元春・元長は外曲1町彦九郎給を石春盛に安堵,同15年10月1日外曲名田2町を吉川経言が田中金次郎に安堵している(藩中諸家古文書纂)。同19年3月のものと思われる吉川広家領地付立には「四百貫 寺原」とある(吉川家文書)。また元和3年4月23日の吉川広家功臣人数帳に,鉄砲衆として,寺原の長右衛門の名がある(同前)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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