赤間町(近世〜近代)

江戸期~現在の町名江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領古くから赤間関の中心的商業の町町名は赤間関の地名にちなんだもの(長門国志)元文4年の地下上申絵図に「赤間丁」と見える長府藩初期の赤間関七か町の1つ(下関二千年史)寛政4年の家数81・人数333うち男121・女212(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)天保9年の赤間関人別帳によれば,家数70・人数254(武士,神官,僧侶を除く)で,ほとんど商家で占められている大坂屋山のふもとに肥前藩の御用所があり,肥前屋敷ともいった(関の町誌)元文4年の地下上申絵図に,「ヒゼンヤシキ」と記されている弘化元年,末繁令輔が寺子屋を開設したが,文久3年廃止(下関市史)寺院には真言宗法興寺があった明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す当町内の小字・小名に栄螺小路・蛤小路・勝負口があった(県風土誌)法興寺跡に大正4年,映画館の東館が開館ほかに,いろは倶楽部・邦楽座などが建つが,第2次大戦中および戦後には廃館となる明治34年イギリス領事館が当町に開設されたが,同39年唐戸町に移転また勧商場の商工館があり(下関市史),山口憲兵警察区赤間関憲兵屯所があった(馬関土産)世帯数・人口は,大正14年165・822,昭和10年147・741(男340・女401)昭和20年の空襲で町の大半を焼失昭和29年,一部が中之町・唐戸町となり,関後地村【せきうしろじむら】・西之端町・田中町・奥小路町・裏町・中之町・稲荷町の各一部を編入同31年西之端町・稲荷町を編入同39年一部が中之町・宮田町1丁目となる世帯数・人口は,昭和45年237・774,同55年208・524,同60年253・598

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7424421 |