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島末荘(中世)


平安末期~南北朝期に見える荘園名周防【すおう】国大島郡のうち「大島三箇庄」の1つ藤原経房の日記「吉記」によると,承安4年2月26日,最勝光院領島末荘から国庫へ弁済した官物を注進せよと命じた記事がある成立年時は不明であるが,平安末期には当荘に国領もあったものか当荘は後白河法皇の妃建春門院(平滋子)の発願によって創建された最勝光院の寺領荘園の1つであった安元2年の建春門院の薨去にともない,後白河法皇に最勝光院領は伝えられたであろう「吾妻鏡」文治4年12月12日条によれば「周防国島末庄地主職事,右件庄者,彼国大島之最中也,大島者,平氏謀反之時新中納言(平知盛)構城居住,及旬月之間,島人皆以同意,自爾以降,為二品(源頼朝)家御下知,件島被置地主職許也」と見え,源平合戦のとき平知盛が当島を拠点にし,島民の多くがそれに加担したのにかんがみ,頼朝は戦後大江広元を当荘地主職に補任した建久3年には広元は「大島三箇庄」以下の地頭職を安堵されている(正閏史料外編1/鎌遺594)当荘に設けられた地主職もそれに吸収されたものか永仁2年10月10日付の北条実政施行状案(大和尊勝院文書/鎌遺18673)の奥に記された「御施行被成下周防国諸郷保地頭次第」中に「島末地頭殿」と見え,国領に設置された地頭があった当荘は寛喜3年8月28日の前権僧正成賢譲状案(醍醐寺文書1/大日古)に「周防国島末庄」とあり,成賢から道教法眼に譲与された所領中に見えるまた寛喜3年9月の成賢遺言状案(高山寺古文書)にも同一内容が見え,さらに醍醐寺遍智院領6か所の1つとして当荘が見えるなお安貞3年3月日の醍醐寺三綱等解案(醍醐寺文書8/大日古)の紙背文書中にも「島末庄余田」とあり,当荘内には別相伝と思われる余田が存在したらしい「譜録」長崎首令高売家に収める系図によると,長崎氏の祖という藤原判官親康が当荘下司職に補任され,その孫光親は島末東西兼帯惣公文であったという南北朝期の興国3年4月28日付の中院定平奉書(忽那家文書/愛媛県史資料編古代・中世)によれば,「社島(屋代島)内島末庄西方領家職」が忽那下野法眼義範・島末兵衛次郎近行・同兵衛四郎近重・柱五郎左衛門尉俊宗ら一味連署の輩に分割知行されている当荘領家職がすでに東西に分けられ,また島末を名字とする在地土豪が存在したことを確認できる鎌倉末期にすでに当荘は有名無実の地となっていたが(上司家文書/鎌遺12913),南北朝期にはさらに当荘および近隣の島嶼の武士層(海賊衆)によって押領されていった島末荘西方というのは,現東和町西方がその遺称と思われる東方との境は,鎮守社の位置,氏子の分布等から推定して東和町森と同平野の間であろう南北朝初頭以降,荘園としての実体を失ったらしく,島末の地名としては史料上に見えるが荘名を付していない永享4年4月2日の大内持世知行宛行状(地名淵鑑)によると,長崎隼人佐は大内持世から「屋代島島末内本知行半分」を宛行われているまた「大内氏掟書」に山口から分国中の所々への行程を記したなかに「大島郡四日〈但島末に至りては五日〉」と見え,大内氏の本拠山口から当地へは5日行程であったことが知られる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7425509