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櫛淵荘(中世)


 鎌倉期~室町期に見える荘園名。那東郡のうち。櫛淵別宮とも見える。元久2年12月日の別当通清処分状に「阿波国 生夷庄 櫛淵庄 三昧田」とあるのが初見で,当荘など相伝の房領を修理別当宗清に譲っている(石清水文書/大日古4‐1)。承久の乱後,新補地頭として秋本(元)二郎兵衛尉が補任されるが,貞応元年7月24日の関東下知状(同前),同年8月21日の六波羅下知状写(同前)には「阿波国櫛淵別宮」と見え,地頭の代官が神人等相伝の「能田」を選び,「地頭分」と号して領作したとして訴えられ,本給田・本名分以外の田地に対する濫妨を停止するよう命じられている。また同年8月21日の六波羅下知状によれば,当荘の地頭は阿波国内の三昧田6町も押領しており,幕府はこれを停止するよう命じている(同前)。寛喜2年正月日の権別当宗清置文によれば,「若宮長日御油月宛事」として当荘には11月4升4合,12月1升3合,計5升7合が割当てられていた(同前/大日古4‐2)。嘉禎3年5月日の検校宗清処分状では,宗清女四条院女房少将局分の1つに「阿波国櫛淵庄〈一期之後,可任本所教清〉同国三昧田〈子細同前〉」とあり,少将局没後は教清の沙汰とする旨定められている(同前/大日古4-1)。下って弘安4年3月3日の阿波国櫛淵庄預所地頭和与状写によれば,当荘預所左衛門尉資村と当荘地頭秋元泰経らとの間に,当荘の所務相論についての和与が成立した(同前)。同和与状には「当庄条々所務,度々雖令和与,両方所存相貽之間,相論依不断絶」とあり,前記の貞応年間の相論以降も地頭による当荘侵略が継続していたことが知られる(同前)。同和与状では,下地中分が定められ,地頭未進の年々の神用米600石の代わりに地頭方の田地4町5反が弘安4年から11年を限って領家方に引き渡すことになった(同前)。そして同年5月29日の六波羅下知状でこれが承認されている(同前)。下って南北朝期の建武元年8月21日の後醍醐天皇綸旨案(唐招提寺史料第1)に「出雲国横田庄・阿波国櫛淵庄等地頭職,所被付社家也」とあり,石清水八幡宮検校に安堵されている。ついで貞和3年2月11日の光厳院院宣によれば,「八幡宮領阿波国櫛淵庄外宮役夫工米事」とあり,当荘に造伊勢神宮の役夫工米を課すことを停止している(石清水文書/大日古4‐1)。下って応永3年と推定される10月3日の沙弥常長(細川義之)書状写によれば,当荘は守護請の地となっており,請料を納めたことが石清水八幡宮の田中氏に伝えられた(同前)。また同4年8月13日の沙弥常長(細川義之)遵行状写では,阿波守護細川義之は幕府の命を受けて,「阿波国櫛淵庄領家職并公文田所両職」を石清水八幡宮雑掌に沙汰するよう,武田彦次郎入道と佐々木九郎入道に命じ(同前),同7年11月3日の飯尾頼連奉書写でも「阿波国櫛淵庄領家職内,公文田所両職事」を石清水八幡宮雑掌に沙汰するよう,佐々木壱岐入道と武田近江入道に命じている(同前)。なお応永4年の年紀のある金剛平寺(廃寺)旧蔵鰐口銘には,「櫛淵庄佐山金剛平等(寺カ)」とある(阿波国荘園史料集)。下って享禄4年9月19日の中房尭琛書状には,「一,櫛淵之事,猶申分承候,拙者為一人難定候間,各々談合申,御返事可申候」とあり,相論があったことが知られるが,詳細は不明(石清水文書/大日古4-3)。荘域は現在の小松島市櫛淵町付近に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7427572