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笠居村(近世)


 江戸期~明治14年の村名。香川郡西のうち。葛西とも書いた(香川郡志)。笠居郷に属す。はじめ生駒氏領,寛永19年からは高松藩領。村高は,「寛永17年生駒氏惣高覚帳」では笠井ノ郷と見え3,445石余,「貞享元年高辻帳」では笠井村と見え2,121石余,「天保郷帳」3,892石余,「旧高旧領」4,249石余。寛永19年の小物成帳に見える当村の塩266石7斗2升は,当村の笠居新浜を中心にその西の生島新浜・亀水【たるみ】浜などの塩田に課されたものと思われる。宝暦12年の切支丹宗門改帳では人口1,715(男935・女780)。農業には本津川流水が利用され,「入れ上り」という慣習によって田植水の利用は,川下から漸次川上に及ぶ。衣掛池はその真ん中が阿野【あや】郡との郡境となっており,寛永年間西島八兵衛の築造といわれ,その名の由来は往古西行法師が通りかかり,緇衣(黒衣)をその畔の松にかけて休息したことによるという(讃州府志)。地内の香西の地名は,香川郡の西に位置することに由来すると思われ,「南海通記」には香東川の西であることによるとある。嘉祥年間当地の守護に任じられた新居資村は香西氏を称した。同地は海に面しており,香西浦とも呼ばれ,享保5年の往来札には香西浦大庄屋の名も見え(新香西史),文政11年「全讃史」では笠居郷に属する1村として記されている。有時には水軍となり,平時は漁夫である香西水軍による漁業が盛んであった。享保16年香西浦の鰆が藩主松平家から将軍家に献上されている(同前)。また,天保11年には藩主の帰城・参勤など沖へ出る際には水夫御用が命じられ,「大勢ノ櫓手取達者成者撰指出風波ヲ凌御用」を勤めていることが語られ(香西漁業史),水軍としての勤めを果たしていたことが知られる。「香西の町はむきむき」といわれ,香西の道路は迷路化され,袋小路やかぎ形に折れて要塞化していた。「一ニ香西二ニ鴨部カ善遂テ成マイ志度カ善ト」と謳われ,香西浦が讃岐国一の良い津であるといわれていた(南海通記)。享保17年香西浦漁夫の家数363・人数1,588(新香西史)。天保7年の「四国遍路道中雑誌」に香西浦は「人家凡千軒も有べし。農家漁家入接,綿并粉類を製す。少しの船間も有って随分繁華の場所にして,商戸多有の地なり」などと記されている。漁場区域をめぐって享保17年に岡山藩下津井などと争ったほか,塩飽【しわく】・坂出【さかいで】・雌雄島などとも争いがあった。なお,地内の平賀は香西の旧地名と思われ,同所の柴山に香西氏が海防のために築いた柴山城や,同氏尊崇の真言宗大覚寺派香西寺があった。「南海通記」に「平賀ハ海中ニテハナクシテ庄内也,然共柴山アリ,故に大船ガゝリニシテ商売ノ利潤アリ」,また,「平賀ノ浦ニ廻船ヲ繋テ旅客ノ往来止事ナシ」と記されている。五色台山塊北東麓,本津川河口西側で瀬戸内海に面して開かれたのが笠居新浜で,西の生島新浜(寛永10年讃岐国絵図には笠居生島とある),亀水浜(同笠居垂水とある)とともに塩田が営まれていた。天正年間の香西寺所蔵絵図には,勝賀山の北,北辺海岸天神のはなと柴山城との間に塩浜が描かれている(近世塩田の成立)。生島新浜では,天明8年藩主松平頼起の命によって着工された生島塩田が寛政2年に完成した。ただし,一説には豪商米屋市蔵・金川屋太次郎が藩の許可を得て寛政2年着工ともいう。この塩田の完成時の規模は,反別36町6反余・塩釜屋23軒で,藩営専売下にあったと推定される(香川県の歴史と風土)。地内亀水浜の亀水川河口の塩家塩田は江戸中期の築造と伝えられる(下笠居村史)。当村南東部は丸亀街道が通り,宿場町を形成した。香西寺は行基の開基で,宝幢山勝賀寺と称して勝賀山頂にあったものを空海が山麓に移して宝幢山地蔵院勝賀寺としていた。のち香西氏は香西寺と改め,本津の里に移して地福寺とされ,さらに生駒氏によって高福寺と改められ,寛文9年藩主松平氏により現在地に移されて地蔵院香西寺となった。天台宗青峰山千手院根香寺は,智証大師創建,四国霊場八十八か所第82番札所。同寺の名は,香木から出る匂いを含む水が川に流れたことによって香川郡の名称を生んだというその香木にちなむといわれる。同寺には寛永17年生駒氏が18石余,延宝4年松平氏が30石(のち20石を増加)の寺領を寄進している。地内の寺院にはほかに藩主頼桓の制札を有する天台宗薬師寺,香西氏の菩提寺である真宗興正派養福寺,木喰上人作の閻魔王木像(舌出しエンマとして有名)を祀る真言宗当山派観音寺などがある。神社は,承久年間香西資村勧請の,藤尾八幡宮とも呼ばれる宇佐神社(讃岐国名勝図会)や,香西氏が恩顧を受けた大内義興を祀る大内神社,息子香西四郎を暗殺された母の霊を鎮めるための貴船神社,鬼を誅したという熊野権現を祀る熊野神社,塩田守護の塩竈神社,志度寺縁起にある当願・暮当兄弟のうち当願が海中に沈んだことにより旱魃の時雨乞をすれば必ず降雨があるとの伝説がある小槌島の小槌神社など。文化6年香西寺の裏山に四国八十八か所の縮小版が百姓庄兵衛によって創設された。文化5年伊能忠敬による海岸測量が行われ,当地では亀水・生島から始められ,10月6日香西浦に1泊している(久米栄左衛門手記)。「南海治乱記」「南海通記」などを著した軍学者香西成資は当地の出身。柴野栗山の師後藤芝山は当村に居住していた。明治4年高松県,同年香川県,同6年名東【みようとう】県,同8年再び香川県,同9年愛媛県に所属。明治元年長安寺に教育所が設置され,明治5~6年に香西・亀水などにおのおの小学校が置かれた。同8年には鬼無に香川郡内初の学校建築である鬼山小学校が設置されている。同年の戸数1,685・人口8,077,反別440町余(梶山家文書)。江戸期の文化年間から金柑,明治初年頃から青リンゴなどの果樹や盆栽・苗木栽培が南東部を中心に始められたが,多くを産出するには至らなかった。江戸期の弘化年間から地内神在で始められた当村の窯業は明治期になって村内各地で黒物陶器(くど)・土瓶・植木鉢など多品目にわたって製造されるようになり,香西の港から積み出されるようになった。塩田は明治14年の記録では31町余であり,塩業は盛んになるにつれて,開発・維持管理に多大の資本を要するところから紛争も起き,明治13年には製塩請負人(小作人)が底土を除くその所有権を要求して塩製造人である旧藩主と争う生島訴訟を起こしている(下笠居村史)。同14年上笠居村・中笠居村・下笠居村に分村。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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