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萱原(中世)


 鎌倉期から見える地名。阿野【あや】郡羽床郷のうち。建久8年2月の讃岐国司庁宣(八坂神社文書/鎌遺900)によれば,羽床郷内の荒野6町が八坂神社執行玄有に分賜されており,異筆で「今肆町可加給,合拾町也,萱原也」と見える。この10町のことであろう。建長8年3月日付讃岐国司庁宣(祇園社記御神領部15/鎌遺7978)では「当(羽床)郷内萱原神田拾町」が祇園社感神院領とされているが,その四至は東・北が陶【すえ】保,南が久美山嶺,西が滝宮領とあり,同年同月20日付讃岐国宣(書林会第1回総合目録/鎌遺7979)にも「萱原神田」と見える。南北朝期に所見する善通寺誕生院領萱原村との地理的関係は未詳だが,萱原村はこの祇園社領萱原神田を含む地か,または隣接してあったことが,明徳4年9月6日付および応永元年9月4日付の室町将軍足利義満御教書案(八坂神社文書)によって知られる。いずれも,讃岐守護細川頼元に宛てたもので,この中で幕府は善通寺誕生院の萱原神田押領を停止するよう命じている。萱原神田は,建久8年に「羽床郷内萱原近辺荒野并堺内起請田」をもって祇園社感神院に寄進されて以後,祇園社相伝の所領であったが,建治2年10月19日付の讃岐国宣(青木鉄太郎氏所蔵文書/鎌遺12522)によれば,「今年始成違乱」と羽床郷司の押領があったことがわかる。鎌倉末期,嘉暦3年11月4日の後醍醐天皇綸旨案(八坂神社記録)と同年12月26日の讃岐国宣案(同前)によって静晴法印の知行が安堵されているが,社家内部の紛争によるものか,翌年2月4日には,再び綸旨が発給され(同前),濫妨の排除が令せられている。南北朝期に入って,文和2年8月15日・同3年4月2日には,後光厳天皇の綸旨(八坂神社文書)によって執行宝寿院顕詮の所務知行とその門弟相続が認められているが,文和3年のものとも思われる後欠の顕詮申状(同前)によれば,西大野郷と萱原神田は「吉野殿御一流」の御祈祷料所であったためいったん闕所となり,このたび改めて安堵されたものであること,また顕詮方と静晴方との所職をめぐる紛争がなお続いていることが知られる。この間文和2年から同4年にかけて,新宮三位房ら武士の濫妨をとどめ顕詮方の知行を全うすべき旨の幕府の指令がたびたびなされ,同4年7月1日には,守護細川繁氏が守護代秋月兵衛入道に宛てて下地の沙汰付けを命じている(八坂神社文書・八坂神社記録)。静晴方との紛争はなおくすぶっていたと思われるが,応安5年12月9日には萱原神田文書正文7通が80貫文で顕詮方に売却されている(八坂神社記録)。しかし,この売得のため正文7通は永代8貫文で清水北坂に入質され(同前),永和3年に至ってもこの状態は続いていた(同前)。顕詮ののち宝寿院玉寿丸が所務を継承したが,祇園社の所務支配は徐々に形骸化していったものと思われる。応永13年閏6月17日付の管領斯波義重奉書案(八坂神社文書)で幕府が細川頼元に対し宝寿院玉寿丸の萱原神田所務を全うすべく命じたのを最後に史料から同神田の名は見えなくなる。この間,南北朝期には,康永元年6月日付の雑掌祐乗言上状案に「萱原村」と見え(善通寺文書/新編香川叢書),萱原村地頭押乗四郎知基代心道以下の輩の本所所勘違輩を訴えている。また,康永年間のものと思われる善通寺寺領目録に「羽床郷萱原村〈誕生院領〉」と記されている(同前)。萱原村が善通寺誕生院領となった経緯については不明であるが,誕生院住持であった権大僧都宥範の観応3年6月25日付の譲状には萱原村は見えず(同前),「八坂神社記録」応安5年12月21日条によれば,応安2年に萱原神田の安堵綸旨が随心院に下されたとあり,宥範より2代後の同院住持権律師宥快の応永21年4月21日の譲状には誕生院住持職所領の1つとして「一所 萱原村領家職事」と記されている(同前)。同院領萱原村領家職は長禄2年7月10日には在地武士滝宮豊後守実長が代官になり,向後5年間の預り状を誕生院に提出している(同前)。滝宮実長は文明年間以後,宝鏡寺大慈院領阿野郡南条山の代官になった滝宮実家の実父か親族と考えられるが,滝宮氏は当時,阿野郡南条一帯に香西氏の下で勢力を伸張させた国人層のうちの有力な一族であろう。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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