多度郡

多度郡の荘園は,平安期に成立した安楽寿院領多度荘・賀茂社領葛原荘のほか,鎌倉期になると,現多度津町域では,鴨荘・堀江荘・藤原荘が史料にでてくる。ただ藤原荘は,奈良期に葛原郷が藤原郷とよばれていたことから当郷内にあると推定されているのであって,所在地は明確でない。現善通寺市域では,中村郷全域が高野山一心院領となり,良田郷東寄の地が金蔵寺領となった。平安末期に善通寺と曼荼羅寺の周辺に集められた両寺領は,寛喜元年の官宣旨によって,東寺長者兼随心院門跡親厳僧正の領掌が認められ門跡相伝の寺領として確立した。この寺領は現善通寺市の中心部を占めており,一円保という。またこれとともに善通・曼荼羅両寺の本寺が東寺から京都山科の随心院に移ることになった。この後弘安年間頃までに,随心院―善通寺領には,弘田郷・良田荘(良田郷西寄)・生野郷修理免が加わり,鎌倉後期に寺領の最盛期を迎えた(善通寺文書/新編香川叢書)。善通寺市域にはほかに領主不明の吉原荘があり,また,前記善通寺領修理免を除いた生野郷と同郷内大麻社は大覚寺統の院領として建武新政期まで伝領された。安楽寿院領多度荘も八条院領の一部として大覚寺統に伝領されている(竹内文平氏旧蔵文書)。讃岐国を院御分国として領していた後宇多法皇は,元亨4年,崩御に際しての御遺告(大覚寺文書)で,讃岐国衙領から多度郡を分割して大覚寺領とした。これに伴い善通・曼荼羅両寺は大覚寺の末寺となったが,建武新政の失敗によって大覚寺統は勢力を失い,暦応4年,随心院の訴えで両寺の本寺の地位は随心院に返った(善通寺文書/新編香川叢書)。多度郡の大覚寺領有も停止になったことと思われる。屋島合戦に先立つ元暦元年,中讃・西讃の武士が橘公業に従って源氏方に参じているが,その中で大麻藤太家人とあるのは生野郷大麻を本拠とする武士であろう(吾妻鏡)。当郡内に地頭が置かれたのは主として承久の乱後のことである。鎌倉期の史料に見える地頭は,善通寺(一円保)=氏名不明,吉原荘=左大臣法印,良田郷=氏名不明,多度荘=氏名不明,堀江荘=春日氏,鴨荘=堀江氏である。この中で,善通寺地頭は安貞2年停止(吾妻鏡),左大臣法印は随心院の厳恵である。春日氏と堀江氏は在地の武士らしく,また良田郷地頭は永仁年間頃,領主善通寺との間で下地中分を行っているから,郡内においてある程度の領主的発展をしたと推測されるが,史料不足のため明らかにし難い。南北朝期になると弘田郷に飽間斎藤氏,伊予の村上氏,吉原郷に花園侍従房が地頭職を得ているが,動乱中の補任であり,特に村上氏と花園侍従房は南朝方であるから,在地にあって領主制を発展させることはなかったであろう。南北朝期以後当郡を支配するのは香川氏である。香川氏は「讃州府志」などによれば,相模国香川荘出身であり,細川頼之に従って来讃し,西讃の詫間氏(三野郡詫間郷)の跡をうけて多度・三野・豊田3郡を領したというが,本拠としたのは多度郡であり,多度津の本台山(現桃陵公園)に居館をおき,多度・三野両郡の境の天霧山に城を築いて郡内を支配した。応永年間の頃から讃岐守護細川氏の西讃守護代となっている。多度津は古くから多度郡の津として発展し,文安2年に兵庫北関を通過した多度津船は22艘にのぼる(兵庫北関入船納帳)。香川氏はここに居館を定めたことによって,西讃の物資の流通を抑えることができたと思われる。また一方では葛原荘公文職(永源師檀紀年録)など荘園諸職の獲得,善通寺領弘田郷・一円保などの請負(善通寺文書/新編香川叢書),金蔵寺領良田郷の段銭徴収(金蔵寺文書/同前)などの手段を通じて領主支配を拡大し,戦国武将に発展した。16世紀に入ると,阿波の三好氏の勢力が強大になり,東讃・中讃の武士はその支配下に入ったが,香川之景は従わなかったので,永禄元年,三好実休が阿波・淡路・東讃・中讃の軍勢を率いて之景のこもる天霧城を攻撃,之景は香西元政のすすめを入れて実休に降服した。三好勢の本陣となった善通寺は,軍勢引揚げの際の失火で全焼した(南海通記)。天正6年,讃岐攻略の兵を起こした土佐の長宗我部元親は,香川之景に使者を送って帰伏をすすめ,之景はこれに応じたので,多度郡も長宗我部の支配下に入った。しかし,天正13年,豊臣秀吉に降伏して讃岐を去った元親とともに,香川氏も天霧城をすてて土佐に渡ったので,香川氏の多度郡支配は終わりを告げた(南海通記)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7429879 |