100辞書・辞典一括検索

JLogos

21

吉原荘(中世)


 鎌倉期~織豊期に見える荘園名。香美郡のうち。初見は,建久9年11月日の土佐国留守所下文案(壬生家文書/鎌遺1014)で,「留守所下 吉原御庄」とあり,官宣旨および国宣を承けて同文書が当荘に発給されている。同文書は,吉原荘の「国使入勘課役」や「甲乙輩濫妨」を止める代わりに,太政官から課せられた伊勢神宮の役夫工米および遷宮費用・造内裏・造御願寺・大嘗会・乳牛・諸祓・相撲などの負担のほか,3年に1度の御船遊役の費用を弁済すべき旨が命ぜられている。また長日不断法供米・円宗寺法華会料米・太政官厨家納物などの上納を命じられるとともに,高倉院法華堂領として御油1石2斗を負担しており,高倉院法華堂を本所とし,小槻氏を領家とする荘園で,「令左大史小槻宿禰隆職子々孫々領掌当国吉原庄一処事」とあるように,小槻氏が代々領家職を世襲したことがうかがえる。なお同文書に見える円宗寺は,後三条天皇の勅願により延久2年に京都の仁和寺の西南に建立された寺院で,同4年以来,国家的行事として最勝会・法華会が行われるようになり,その料米が当荘にも課されたことがわかる。貞応2年6月11日の小槻国宗譲状案(同前3117)によれば,当荘は故伊賀前司殿の所領であったが,御祈願所の便補の地として高倉院法華堂に寄進されており,小槻隆職の長男国宗は,建保2年に子の通時が死去したため,孫の淳方を藤原時子の猶子とし死後淳方に相伝することを指示して当荘を含む所領を時子に譲渡している。その後,天福2年6月4日の藤原時子譲状(諸国庄保文書/鎌遺4669)には「とさのくニよしハらのしやう,この庄も,四代さうてんのあいた,つゆわつらひなく候」と見え,違乱なく相伝されていたものと思われる。また当荘の成立については,文永6年4月11日付の小槻有家申状(壬生家文書/同前10416)とほぼ同時期に作成されたと考えられる官中便補地由緒注文案(同前3039)に,「土佐国吉原庄〈右大臣法印良勝知行〉……件庄者,自源包満之手伝領之後,隆職宿禰殊入功力開発荒野之地,云開墾之由緒異他,随則賜子孫相伝之」とあり,小槻隆職が源包満から伝領した荒野を開発して御祈願便補の地としたが,小槻氏は当荘の領家職を確保したことがわかる。なお「右大臣法印良勝」とは,隆職の長男国宗の孫にあたる近衛良勝で,弘長3年3月22日の官御祈願所注進状(門葉記所収文書/鎌遺8945)に「土左国米百石……土左国便補吉原,領家右大臣法印」と見える人物と考えられ,これに対応して「青蓮院道覚親王記」には「一,腕国々……九月 壇供人供等 土佐国〈吉原荘,六合国〉」などと御修法に関する記事が見える(門葉記/大正新修大蔵経)。また同年12月13日の公文所証状案(壬生家文書/鎌遺9027)では,当荘から毎月御相節3石・御雑事分12貫500文などを納める旨が誓約されている。なお文永6年と推定される4月11日付の小槻有家申状土代(同前10419)にも当荘名が見え,当荘を含む官中便補の地の知行をめぐって相論が起きており,一連の関連文書が壬生家文書中に残る(鎌遺3039・10416~10421)。永仁4年7月および同5年7月の法光明院盂蘭盆供荘々廻状案(同前19101・19102)にも当荘名が見え,小槻国宗が京都綾小路坊城に建立した法光明院の盂蘭盆に際して経物と裏物とを奉送すべき旨が記されている。その後南北朝期に入ると,建武3年12月26日には光厳上皇院宣(壬生家文書/大日料6‐3)が発せられており,小槻匡遠に対して,陸奥国安達荘などとともに当荘の安堵がなされている。また同4年3月3日の光厳上皇院宣案(同前/南北遺九州865)にも「壬生殿(小槻氏)知行之書立」として「一,土左国吉原庄」と見えるが,暦応3年6月3日の左近将監実綱施行状(香宗我部家伝証文/古文叢)に,「香賀美郡内香宗我部郷与大忍庄并吉原庄等東西堺事,早任御下文之旨,可被沙汰付下地之由候」とあり,香宗我部郷との境をめぐって問題が起きていたことがうかがえる。また応安元年閏6月13日の細川頼之書下案(壬生家文書/図書寮叢刊)では,当荘の地頭職の下地半分を雑掌に引き渡す旨が命じられており,当荘も次第に細川氏の勢力下に入っていったものと思われる。なお永禄11年6月12日の一宮社再興人夫割帳(土佐神社文書/古文叢)には「吉原衆」として,公文のほか「西尾右京兵へ」など4名が記されており,長宗我部元親は,四国統一と戦勝を祈念して土佐一宮社である土佐神社の再興を図ったが,この時に人夫役を負担していることから,長宗我部氏の支配下にあったことがわかる。その後,天正16年の吉原荘地検帳には,「香我美郡吉原庄御地検帳之事」とあり,荘内の小村として,大将軍村・住吉村・沢村・八反畠村・十町分村・西木戸村・黒崎村・タツミノ村・浜出村・黒ノ前村・宮村・野本村・上前田村・井戸村・高山村・東島村が見え,名に友光名・徳市名・有久名・吉弘名・貞成名・散田名・二良丸名・吉弘名・定成名・彦三良名がある。東島村は「河ヨリ西路」とあり,物部川西岸の飛地であった。同地検帳の当荘分の検地面積は,総計85町2反余・屋敷数105で,うち本田47町1反余・出田11町8代余,屋敷5町4反余・出屋敷3町3反余,本畠14町1反余・出畠3町1反余があるほか,当荘と香宗古川の論所6町4反27代余,同じく久枝との論所1町2反12代余,同じく上岡との論所3反がある。地内の水田は上・中・下・下々田,畠は中・下・下々畠に分かれ,清水川から南・西へ離れるにつれて,等級の低い田地もしくは畠になり,屋敷分は西徳善八幡宮周辺から清水川北岸に多い。神社については,西徳善八幡宮には,「西徳世宮床拾代 三間四方ノホウテン 三間二間ノ舞殿」,大八幡宮には,「宮床拾代 二間ノ社 五間二間横殿」とあり,ともに馬場や多くの神田を所有している。住吉神社は浦分の神社で,「南浜住吉宮床拾代小社有板フキ也」とある。寺堂としては,孝(光)善寺・修(種)善寺・定養寺・窪之坊・薬師堂・親養寺の寺領が見える。なお,文禄4年5月10日の長宗我部盛親知行宛行状に「〈十二ケ所〉合壱町五反弐分〈深淵〉平岡介九郎〈吉原村〉同し」と見え,彦左衛門に宛行われている(蠧簡集)。慶長2年3月24日の秦氏政事記には中五郡庄屋として「一,吉原 庄屋 小串彦四郎 刀禰 浜口新兵衛」と見える(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7437766