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怡土荘(中世)


平安末期~戦国期に見える荘園名筑前国怡土・志摩両郡のうち天承元年の筑前国守藤原公章下文案(東大寺文書/平遺2183)に「下 怡土御庄政所 可早停止非法任道理致沙汰 観世音寺牒送船越庄御米事」と見える領家は仁和寺法金剛院この年は法金剛院落慶供養の翌年に当たり,公章は同院建立の発願者待賢門院の近親者で当荘の預所を兼帯していたまた時の大宰大弐藤原経忠も待賢門院暲子の姉実子の夫であったおそらく大弐経忠・国守公章らが法金剛院領としての怡土荘立券を斡旋したものと思われる当荘は,荘内に板持・桑原・長野・原田の諸荘や国衙領が混在する散在型荘園で,別名の開発領主たちが大弐・国守らの口入をもとに,その名を寄進して成立したものであろう立荘当時の在地支配の最高機関は荘政所で,預所代官たる荘留守がその指揮をしていたと考えられる荘留守は府官大蔵系原田氏と思われ,平氏の西海進出によってその支配下に入った法金剛院領は待賢門院庁によって管理されており(同前/同前2375),久安元年待賢門院死去後,法金剛院は御室覚性法親王に譲られ,法金剛院領は上西門院に伝領された(仁和寺御伝/群書5)この時,本家職は皇室,領家職は仁和寺と分化し,領家支配方式が転換する仁和寺支配の史料初見は安元元年である(大泉坊文書/平遺3708)後白河院は皇子守覚を嘉応2年仁和寺検校・法金剛院別当に補任した関係で(仁和寺御伝/群書5),病弱の姉上西門院に代って本家職を執行後白河院以後,本家職は持明院統が伝領した一方,荘務権は領家仁和寺の手にあり,その権能は大きかった年未詳恒吉名等坪付注文(広瀬正雄氏文書/怡土荘史料)・法金剛院領目録案(同前)・建武3年沙弥可昌奉書(大悲王院文書)などによると,仁和寺は名単位に1筆毎の斗代・損不・田畠数を把握していたほか,島方政所として荘内住宅や名主・荘官等の名字などを京都宛てに注進させており,検注権・年貢斗代決定権を持っていた安元元年の仁和寺宮庁下文では,寛智に仏聖田5町を宛行っていて,免田扱いにしており,仁和寺が公事賦課の決定権も握っているまた,誓願寺・今津宮等の荘内寺社へ名主らが行った田畠寄進の認可や,名主職安堵を内容とする仁和寺宮庁下文が存在しており,仁和寺が下地の進退領掌権をも有していた(大泉坊文書/鎌遺3525・8384)その他,永仁2年の預所某書状(王丸文書/同前18629)によれば,王丸名内立山への散在之輩の立ち入りを禁じているが,この史料からは水源涵養林設定の事情が知られ,仁和寺が用水管理権を持っていたこともうかがえる貢納については,文永9年の某下文に「年貢以下大少御公事」と見えるが(広瀬正雄氏文書/同前11112),具体的には未詳但し,斗代については王丸名が1斗5升代,恒吉名では5升代~2斗代で,田品は上・中・下・下々に分類されているまた,付加税として反別2升の反米,率分不明の交分米,銭納化した田付布,所当形式で名主請作となった佃米などが見える(広瀬正雄氏文書/怡土荘史料)当荘は「彼御庄当寺に取て旁其用途候」と称されるほどで(仁和寺文書建久3年守覚法親王御教書/同前),公事も総額は莫大であろうが不明ただ,怡土荘布として紺布・白布が仁和寺北斗修法の際の下行分に見え(仁和寺記録13修満外儀雑事1),下って元亀2年には今津の紺政所の存在が知られる(児玉韞採集文書/怡土荘史料)正応3年の関東御教書によれば,貿易港今津を荘内に持つため唐船点定銭が徴収されていた(大悲王院文書)また,円城房成俊は元暦2年3月18日,十種供養の布施として「美麗十重〈唐綾五々 只綾五々〉美絹十疋,綿五十両色々布卅段果物」を出しており(醍醐雑事記10),仁和寺貢納分には唐船との貿易品も含まれていると考えられる嘉元3年の鎮西探題裁許状によれば,怡土荘友永方300町は35の名で構成されている(大友文書/怡土荘史料)1名平均8町5反強にあたり,領主的名といえよう荘官としては預所・雑掌・公文所別当・直人・名主・沙汰人・弁済使・梶取らが見えるが,預所は,後白河院管領時には院近臣藤原能盛,その後は仁和寺別当法眼,そして仁和寺供僧が伝領在地領主層の有力者は荘政所の別当として荘園支配体制の中に組み込まれていたが,仁治元年の関東下知状案によれば,安恒村は王丸名を含んでおり,篠原・安恒村は草野氏の相伝私領であった(広瀬正雄氏文書/鎌遺5635)地頭について「吾妻鏡」建久元年3月9日条によれば,当荘は平家方原田種直の勢力基盤であったため,鎌倉幕府成立とともに一時地頭が置かれたが,後白河院の要請で停廃されたその後,弘安7年の少弐経資書下によれば,承久の乱後地頭が再置され,今津地頭には千葉氏が配された(太宰府天満宮文書/怡土荘史料)また,弘安9年には「大友兵庫入道々忍〈頼泰〉筑前国怡土庄志麻方三百町惣地頭職」とあり(比志島文書/鎌遺16130),正応3年には大友一族の田原基直に末永名田地10町・屋敷3所が配分されている(入江文書/同前17385)ともに弘安の役の恩賞であった志麻方300町は友永方とも呼ばれている建武4年の足利尊氏下文(大友文書/南北朝遺1108)には「怡土庄〈維貞朝臣跡〉」と見え,当荘は鎌倉末期には大仏惟貞の所領でもあった元寇以降,次第に大友氏や北条氏勢力が浸透してきたのである13世紀半ばになると「末武名内是光自名」と見え(大泉坊文書/鎌遺8387),名内に自名と称する二次的名が成立しており,14世紀には嘉元3年の鎮西探題裁許状(大友文書/怡土荘史料)に「元岡名内行重名」と見え,名内の二次的名が幕府側にも年貢徴収単位として認められるようになった新田開発や名主職の譲与,脇名の成立などによるが,当荘では貨幣による名田の売買が多く,中でも式内社志登社別当職をめぐる売買が多い(広瀬正雄氏文書・中村令三郎氏文書/同前)弘安ごろからは名主間に主従関係も発生している永仁7年の鎮西探題裁許状に見える鬼塚道蓮と香椎大宮司氏盛(大友文書/鎌遺20069),延慶4年の尼光阿重申状に見える三雲入道と伊勢次郎永経(広瀬正雄氏文書/怡土荘史料)らがそれである彼ら名主間には地縁的な連合も見られ,彼らは小地頭でもあるため,惣地頭と相論を行うに至っている嘉元3年の裁許状によると,志麻方300町の惣地頭大友貞親代寂念と名主(小地頭)39人との間に相論が起こった大友頼泰の惣地頭拝領以来,不知行の状態が続き,地頭加徴米の徴収も困難であるとして,地頭代寂念が鎮西探題に訴えたのである(大友文書/同前)この相論は地頭代寂念の勝訴となったが,惣地頭で有力守護の大友氏すらこの有様であった弘安元年から9年の間に,当荘は関東御料化し,雷山神社は関東御祈願所となっている(大悲王院文書)正応3年の蒙古合戦配分状(入江文書/鎌遺17385)や永仁2年の預所某下知状(王丸文書/同前18629)によると,関東御料化して以後の当荘は怡土方・志麻方に分割され,それぞれに政所があったつまり,仁和寺の惣荘的支配は解体しているのである建武3年足利尊氏の西下で荘家・土民は動乱を恐れて逐電しており(大悲王院文書),同4年尊氏は大友氏泰に怡土荘地頭職を宛行った(大友文書/南北朝遺1108)その後,当荘は南北朝動乱にまき込まれるが,応安6年の今川了俊書下案(斑島文書/怡土荘史料)によると,了俊は弟仲秋を通じて結んだ肥前松浦党の有浦や波多・佐志に当荘井田原を安堵しているしかし,康暦元年足利義満によって「末永名参分壱地頭職」が田原親貞に安堵され(入江文書),永徳3年の大友親世当知行注文では親世に怡土荘が安堵されており(大友文書),以後,少弐勢力と対抗しながら,怡土荘は大友氏の守護領化していくやがて九州探題の後見として大内盛見の勢力が北九州に進出すると,大友持直は少弐・菊池と結んで大内氏に対抗した永享3年6月,大内盛見は荘内萩原で大友・少弐の連合軍と戦い戦死(満済准后日記),次の持世は王丸氏・飯氏氏を被官化しており(王丸文書),大内教弘は有力国人原田弘種を高祖城に配置した下って天文2年,大内義隆は九州に大軍を派遣,怡土荘内で大友方と交戦,柑子岳城を占領したが,天文7年には大友義鑑と和平を行い,志摩郡は大友氏の領国となり,臼杵親連が柑子岳城の城督となった以後も,同城をめぐる攻防があったが,天文20年大内氏は滅亡し大友氏は臼杵鑑続を柑子岳城に配した年未詳の大友宗麟判物案(児玉韞採集文書)では,泊・元岡・小金丸・古庄等の国人たちが柑子岳城勤番を命じられている怡土荘の名は,天文2年11月8日の法金剛院領目録(法金剛院文書)に「筑前国 怡土庄〈田千四百五十町七反 畠三百七十町七反三丈〉」と見え,元亀2年7月10日の今津村志登社領田数坪付案(児玉韞採集文書6)にも「筑前国怡土庄 志摩郡内今津之村」と見えるが,このころにはすでに荘園としての実はなく,地名化したものである(以上,怡土荘史料)なお,荘内の寺社には貿易港今津をもつ関係から入宋僧を開基とし対外交渉の史料を残す古刹が多い今津の誓願寺は真言宗仁和寺派栄西ゆかりの寺で,銭弘俶の八万四千塔がある42坊も今日では大泉坊だけ残り「大泉坊文書」は仁和寺の怡土荘在地支配の実態を示す史料今津の勝福寺は臨済宗大徳寺派で蘭渓道隆の開基大仏氏の祈祷所となったのは,怡土荘が得宗領となったことと無縁ではない雷山の大悲王院は真言宗御室派法持上人の開基と伝えるが,関東御祈願所となり,同院所蔵文書は怡土荘と少弐氏・鎮西探題・大内氏関係を示す貴重な史料その他,今津地区には大隅・日向両国の分担で築造された石築地(元寇防塁)がある弘安5年から正応4年まで千葉宗胤が大隅守護であったため,千葉氏は守護領として今津の地頭職をもっていた弘安7年3月11日,安楽寺吉祥院八講米勝載船具を千葉氏地頭代が押取る事件を起こしている(太宰府天満宮文書/鎌遺15114)これも今津が貿易港だけでなく,沿岸航路上の要衝地であったことを示すものであろう




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7438348