竹敷(古代)

奈良期に見える地名。対馬島下県【しもあがた】郡のうち。阿倍継麻呂を大使とする遣新羅使は天平8年秋,対馬に至ったが,「万葉集」巻15には「竹敷浦舶泊之時,各陳心緒作歌十八首」が見える(古典文学大系)。その内の4首には竹敷の地名が詠みこまれているが「多可之伎」「多可思吉」と表記されており,当地は「たかしき」と称されていたことがわかる。内浅海は弥生時代から古代に及ぶ遺跡の多い所で,日本と大陸を結ぶ航路の泊地として知られていたと考えられ,竹敷はその中心だったと思われる。なお,「続日本紀」宝亀8年正月癸酉(20日)条に,渤海国の使都蒙等が宝亀4年に南海府を発して「対馬島竹室之津」に向かい,途中遭難したことが見えるが,この「竹室之津」は竹敷のこととする説が有力である。また,「続日本後紀」承和10年8月戊寅(22日)条によれば,「対馬島上県郡竹敷埼」の防人が新羅の軍鼓の音が聞こえると報告しているが,郡名が異なることや竹敷は新羅に遠いことから,「行敷埼」の誤りとする説が支持される。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7448618 |




