角川地名大辞典(旧地名) 熊本県 31 永吉荘(中世) 鎌倉期~戦国期に見える荘園名球磨【くま】郡のうち建久2年5月3日の良峰師高所領譲状案(平河文書/県史料中世3)に「平川三郎師高重代所領田数 注文」として「肥後国求磨郡永吉庄之内」の「横瀬」「青山之村」など20か所が書き上げられており,嫡子師貞らに譲渡されているこれらの地名の分布をみると,荘域は,北に「五木之村」(現五木村)があるが,球磨川と免田川の合流する付近の「目田之村」(現免田村)が東端で,そこから西に「永池之村」「平野之村」(以上,現免田村),「平野之村」(現錦町)が並び,球磨川支流の川辺川の流域に,北から「はしかミ之村」「田代之村」「川辺之村」「深水」(以上,現相良【さがら】村)とあり,同じく支流の山田川の上流に「山田之村」(現山江村)があるさらに人吉荘の西側に球磨川に沿って「原田之村」「中神之村」「をうかき」(以上,現人吉市),「渡之村」「尾瀬之村」「高野瀬之村」(以上,現球磨村)と並んでおり,人吉荘の荘域を取り巻くように,球磨川の流域に散在していたことがわかる建久8年閏6月日の肥後国球磨郡田数領主等目録写(相良家文書/大日古5‐1)に「鎌倉殿御領五百丁 預所因幡大夫判官(大江広元)永吉三百(五十脱カ)丁 地頭良峰師高子息字平 紀平次〈不知実名〉須恵小太郎家基領百五十丁」と見え,当荘は関東御領で,預所は大江広元,地頭は師高の子師貞であった弘安6年7月3日の関東下知状案(平河文書/県史料中世3)によると,広元の預所補任は建久3年8月であり,その時の下文には「肥後国球磨庄安富領内三善并西村預所職事云々」「永吉〈于時三善〉并西村可為預(衍カ)預職云々」とあったと見え,当荘は三善とも呼称されていたことが知られる建永2年3月14日の某下文(永池文書/同前)は,袖判に「前大⊏⊐(花押)」とあることから,預所大江広元(前大膳大夫)と推定され,「球磨御領内永吉名住人」に対して,平河師忠をもって「目良生 永池 ⊏⊐(城カ)」の3か村を別納として沙汰させることを命じているその後,前記の弘安6年の関東下知状案によれば,嘉禄元年広元没後,外孫近衛中将実春が預所職を相伝したなお寛元2年5月15日の人吉庄起請田以下中分注進状(相良家文書/大日古5‐1)には「右件田畠草麻桑在家并山野江河狩倉等中分間事……始自当所領東端,限西端他領永吉之堺下前河」と見える一方,地頭職は,前記の弘安6年の関東下知状案によると,当荘が平河氏相伝開発の所領であり,平河師高が謀反の疑いによっていったん没収されたが,文治3年6月16日の平盛時奉書によって返付され,同年12月の天野遠景の施行状には「下 球磨御領 可早任御教書,被安堵平河三郎事」とあったというそして同5年,師高の子師貞は京都大番役を勤仕するよう命じられ,その子師良もこれを勤仕し,建長2年師良は地頭職を良貞らに譲与したというこの関東下知状案は「肥後国御家人平河三郎良貞,同四郎師時当国球磨郡永吉地頭并名主職事」に関する裁許状で,相論となっているのは,当荘における地頭と預所の権利関係が「地頭預所各別知行」であったにもかかわらず,建長3年には実春が同荘地頭職を押領し,文永2年には平河氏が所持する名主分をも混領したということであったこれに対し,実春が提出した貞応・嘉禄の下文は「永吉内被宛西村御文下也,件西村者雖為永吉内,給主各別地頭須恵尼令知行者也,依彼尼狼藉之咎,被召上西村畢」と見え,実春の押領行為は当荘西村の地頭須恵氏の咎を法的根拠としてなされたことがうかがわれるその後,西村地頭職は実春から賀来又二郎入道念阿に移ったが,依然として「令知行永吉并西村両所」という状態が続いたことから,平河氏の越訴がなされ,幕府は「永吉地頭并名主職者,宛給替於当給人,如元可被返付于良貞等也」と裁許を下している元亨2年以降に作成された平河道照申状案(同前)によれば,弘安6年10月には当荘預所職は少弐景資に給付されたが,同8年の岩門合戦によって景資は滅亡,翌9年には同職が備前前司入道に給付され,代官行性の支配を契機として再び平河氏の永吉地頭・名主職は押領されることとなったことが知られる下って南北朝期の暦応3年卯月25日の相良蓮道(長氏)譲状(相良家文書/大日古5‐1)に「子息縫殿允祐長……去三月廾二日当城をとりいて,永吉庄山田城ニたてこもる上者……先日譲与ところの田地在家をくいかへして,嫡孫定頼に譲与ところなり」とあり,子息祐長が南朝方の多良木経頼にくみして当荘の山田城に立てこもったため,義絶して,先日譲与した田地在家を悔い返して嫡孫定頼に譲っている同年6月19日の相良孫次郎(定長)・税所八郎(景宗)宛の2通の少弐頼尚軍勢催促状(同前)に「相良孫三郎経頼,内河彦三郎義真已下凶徒等,打出肥後国球磨郡永吉庄,及合戦」と見え,同年6月24日の相良六郎三郎(長氏)宛一色範氏軍勢催促状(同前)にも「相良縫殿允祐長事……楯籠肥後国永吉内山田城之由」と見える同年9月20日の相良兵庫允(定頼)・同孫次郎宛の2通の筑後経尚奉書(同前)にも「肥後国球磨郡永吉庄山田城落人相良縫殿允祐長已下凶徒等事」,同年12月10日の相良孫次郎・同八郎宛の2通の少弐頼尚奉書(同前)にも「肥後国球磨郡永吉庄木枝山田已下所々城墎警固事」と見える興国2年閏4月28日の相良祐長軍忠状案(同前)に「以去年〈興国元〉三月廾三日,太宰小弐頼尚領永吉庄内山田城〈頼尚代楯籠之〉凶徒等追落……自同八月十日迄于廿日,致散々合戦……雖然,依為兵粮難儀,引退彼城」とあり,当荘内の山田城が南北両朝の争奪の所であったことが知られる康永4年11月日の税所宗円申状案(同前)に「於宗円者,為御方致忠勤之間,此等子細永吉庄御代官新御領平六入道宗昌依令注進」とあるなお,年未詳3月29日付の少弐頼尚書状(同前)に「慶寿寺僧了監寺永吉ニ下向事候」,同じく12月11日付の少弐頼尚書状(同前)に「永吉庄事,条々注給候事,喜入候」と見えるさらに年月日未詳の相良定頼并一族等所領注文(同前)に相良遠江守(定頼)分として,「一所 肥後国球磨郡永吉庄半分〈百七十五町,五百石,三百貫 □河左近允〉頼尚跡」と見える応永34年卯月7日の平河式部知行坪付(平河文書/県史料中世3)には「永吉庄深田内」として「一,小高野妙本か門」が見える明応6年11月4日の永吉荘黒田坪付帳(免田文書/県史料中世4)には「永吉之庄黒田四十五町」のうちに「〈くしか〉さ右兵衛之分〈二人くうし〉」として水田2町5反4丈・畠4町9反,「〈くしか〉九郎右衛門之分〈二人くうし〉」として水田2町5反2丈6代・畠3町9反とある KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」JLogosID : 7453223