滑石村(近世)

江戸期~明治22年の村名。玉名郡のうち。高道村から分村して成立。熊本藩領。村高は「旧高旧領」880石余。元禄国絵図(永青文庫)には「高道村之内滑石村」と見える。寛永年間の肥後領高人畜家数船数調(同前)によれば,船24うち150石以上大船5・津回船4・猟船7・うゑ船8,水夫40。元禄年間の諸御郡高人畜浦々船数其外品々有物帳(同前)によると,船57,水夫45。当村の本村は菊池川沿いではないので,港としての機能を果たす所はその南南東1kmにある小村の晒村である。晒浦には遠見番所が置かれ,番人2がいた。さらに対岸の大浜番所が移転してきて,川口御番所が置かれ,上御番人1・下御番人3が配され,役宅も設けられた。「肥後国誌」では高道村のうちと見え,坂下手永に属し,高742石余,小村の晒が海辺にあり,社堂に晒大明神(榊大明神宮)・諏訪大明神宮・地蔵堂などが記される。同書によれば,海浜に縦420間,横21間の晒ノ松原があり,同所に塩浜が営まれている。このほか,在御蔵1軒・井樋板材木蔵1軒・御用木出候御山(晒山)6町も置かれ(天保15年坂下手永略反別手鑑帳/多田隈文書),藩の出先機関が集まっていた。なお,当地の御蔵の収容能力は1万俵(管内実態調査書)。積出し施設や栄久丸・蛭子丸などの回船問屋もあり,大浜町に次ぐ高瀬町の外港であった。宝暦13年の田畑下名寄帳(県立図書館蔵文書)によると,反別87町2反余,高881石余,小百姓289。天保15年の坂下手永略反別手鑑帳(多田隈文書)では,本方の田40町8反余・畑25町2反余,高742石余,新地方の田5町2反余・畑13町5反余,高118石余など,竈数421,人数は男890・女1,144,馬69。加藤清正の菊池川掘替え工事によって干拓が進んで大野牟田ができ,また,境川の付替えで小浜と晒の間も干拓された。江戸後期になって再び干拓が盛んとなる。享和元年起工,文化元年に完成した家老長岡家による新地33町余,文化5年坂下郷による郷開40町余,文政3年坂下・小田・内田・南関の4手永(郷)による四郷開の一部10町余が干拓された(郡村誌)。これらの事業を中心になって推進したのは,古代からの豪族大野荘の大野氏の末裔,当村の大野十左衛門であった。文化末年彼は大野牟田の灌漑が不十分で荒れていたので,河崎村に井樋を設け,水路を引いて水田化を図っている。浄土真宗西派流長庵は享保年間の創設で,明治12年安楽寺と改称。晒の榊大明神宮には回船問屋の町を物語る狛犬や石灯籠がある。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。「郡村誌」によれば,田48町9反余・畑63町2反余,戸数441,人数2,326,馬106,日本形船84うち500石未満200石以上1・200石未満50石以上20・50石未満荷船12・漁船51,字下屋敷と字晒に人民共立小学校があり,生徒数は字下屋敷が男70・女3,字晒が男47・女40,物産は穀類のほか甘藷・蘿蔔・清酒・魚介類など,民業は農業200戸・大工職14戸・穀物店13戸・漁業92戸など。同16年羽瀬についたノリを晒の女たちが採って出品し,水産博覧会で清原五六は褒状を受けた。同22年滑石村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7453254 |