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御船(中世)


 南北朝期から見える地名。益城郡甘木荘のうち。御舟・三船とも書く。興国6年11月6日の恵良惟澄軍忠状写(阿蘇文書/大日古13‐1)に「去月十六日,凶徒筑後三郎寄来味木庄御船城之間,官軍等出向,致太刀打合戦」とあるのが初見。甘木荘内に位置し,軍事的拠点であった。正平3年2月15日の五条頼元書状写(同前/大日古13‐2)は,阿蘇惟時が「御船御所」で懐良親王に参会したことを記し,また延文4年10月20日の志賀氏房軍忠状(志賀文書/県史料中世2)には6月27日に氏房が御船城を攻撃したこと,永和元年と推定される年未詳7月13日付の今川了俊書状写(阿蘇文書/大日古13‐2),同15日の今川了俊感状写(同前)は御船城の堅固さや御船での合戦について述べており,当地は南朝方の一拠点でもあった。内乱末期の元中10年2月9日には,征西将軍良成親王から阿蘇惟政に「三船一跡」などの知行を認め,南朝方への誘引が企てられている(同前)。下って,天文6年11月の年紀のある北天満神社鰐口銘(宮崎郷土文化財基礎調査報告3)には「甘木庄御船玉虫村」とある。なお天文10年阿蘇氏の家老甲斐親直(宗運)が御船城主となったと伝える(事蹟通考)。「八代日記」には,天文13年4月19日条に「御舟ヨリ宝蔵寺八代被越候」とあるのをはじめ,同21年3月27日条に「隈庄ヨリ御舟領動,放火」,同年4月5日条に「御舟・宇土ヨリ隈庄ニ動,御舟衆十一人打取」,永禄7年8月21日条に「阿そ・御舟,八代同前隈庄働,仁田水打死」などと見える。下って「上井覚兼日記」にも当地名が散見し,天正10年11月22日条には「三舟より宗運無事之儀懇望申候条」とあり,甲斐親直が島津氏に和を請い,帰服の条件として領地若干の返還を求めたことが知られる(古記録)。その後交渉が続けられ,同年12月11日に「三舟・隈庄之人質」が到着し,同15日,島津氏は親直に竜造寺隆信との絶縁の誓紙を徴し,同20日に誓紙が届いた(上井覚兼日記/同前)。その後同12年12月7日条に「三船・隈庄御弓箭之事」とあり,島津氏と対立していたことが知られる(同前)。そして同13年7月3日,親直が没したのち,同年閏8月5日条に「来十一日,三舟・隈庄へ被差通,深々敷御働たるへく候」とあり,当地攻撃が定められたが,悪日ということで延引され,同15日条に「三舟其外諸城悉落居候」とあるように,甲斐親乗は御船城を捨てて退却し,島津義弘が入城した(同前)。その後同14年6月9日条に「肥州表ハ来廿四日,三船へ可被着揃由也」とあるように,豊後大友氏攻撃の1つの拠点となった(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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