大隈村(古代)

平安末期~戦国期に見える村名。正安2年頃から大隈上村・大隈下村と記され,のちには上大隈村・下大隈村と記されている(大友文書・丹生とよ文書/大友史料3・15)。豊後国玖珠郡帆足【ほあし】郷久富名のうち。治承2年7月8日の清原道良譲状が初見であるが(大友文書/同前1),この文書に記された大隈村の四至の東と北は河となっており,今日と同じく玖珠川の西(左)岸にあったことになる。帆足郷は玖珠川の右岸である大字帆足を中心とし,大字岩室・森・日出生などを含む地域であるにもかかわらず,大隈村が玖珠川を越えて左岸にあることは不審である。帆足郷からの出作の関係か,あるいは玖珠川の流路変遷の結果かとも考えられるが,今後の課題である。「弘安図田帳」には「大隈三十町 地頭職大友兵庫入道殿 久富名十七町六段 地頭職帆足六郎左衛門尉通貞(員)〈法名西蓮〉」として,大隈村と久富名を対立的関係に記しているのは,「久富名内大隈上下村」とする志賀文書と矛盾する。いずれももともと帆足氏の所領であったらしいが,大友能直が大隈上下村の地頭職を手に入れ,親秀・頼泰・貞親と継承され,以後は大友出羽氏の所領となった(志賀文書/同前14)。帆足氏は大隈上下村に対しては地頭代職として関係し,久富名17町余に対してのみ正地頭として支配した。南北朝期に至って,大隈上下村に対する正地頭出羽宗房と地頭代帆足通種との相論がつづいている(志賀文書)。その結果は不明であるが,大友義鑒が上大隈村・下大隈村の各一部の土地を丹生治部丞に預けているのが,両村の終見である(丹生とよ文書/同前15)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7455442 |