延岡藩(近世)

江戸期の藩名日向国臼杵【うすき】郡延岡に居所を置き,その周辺を領知した中小藩はじめは外様藩,のち譜代藩天正15年豊臣秀吉の九州仕置により,その島津征討に功のあった豊前国香春城主高橋元種が同年10月県【あがた】に5万石を封ぜられた所領は延岡・高千穂・宮崎・本庄・穂北などこれが延岡藩の始まりであるしかし,その所領の一部である高千穂地方には三田井親武らの土豪が威をふるっており,三田井氏は高千穂の天嶮に拠って新領主である高橋氏に反抗した高橋氏は元禄元年9月から高千穂に兵を入れ,慶長3年頃までにはほぼ鎮定した高橋氏は,はじめは現在の延岡市街より約4km西方の南方【みなみかた】にある松尾城に居を定め,慶長6年から土持氏の旧城であった県城の修築にかかり,同8年の完成にともない県城に移った改築された県城は,東西135間・南北85間の規模で,5つの門を設け,城下町は南・中・北の3町が整備された慶長18年10月高橋元種は罪により改易され,領地を没収された代わって翌19年有馬直純が肥前国島原日野江から転封し,1万3,000石を加増されて5万3,000石を領知した寛永18年直純が卒去し,康純が後を継ぐが,この時康純は弟元純(のち純政)に諸県【もろかた】郡本庄3,000石を分知した元純は正保元年病により退身し,本庄3,000石(本庄村・塚原村・竹田村・森永村)は幕府領となった寛文4年の領知高は,臼杵郡のうち2万5,069石余,宮崎郡のうち1万6,607石余,那珂郡のうち2,804石余,児湯【こゆ】郡のうち5,010石余,諸県郡のうち508石余の合計5万石,藩領は臼杵郡のうち69か村(北方・南方・岡富・祝子・稲葉崎・粟野名・大武・河島・長井・河内名・宮野浦・三河内・市振・古江・熊野江・須怒江・浦尻・出北・恒富・大貫・三須・三輪・伊福形・土々呂・櫛津・鯛名・赤水・庵川・加草・尾末・門川・河内・黒木・入下・宇納間・田代・立石・小原・水清谷・神門・鬼神野・上渡川・中渡川・山三ケ・坪屋・下三ケ・山陰・塩見・財光寺・平岩・富高・日知屋・七折・岩戸・山裏・三田井・下野・上野・田原・河内・五ケ所・鞍岡・三ケ所・押方・向山・岩井川・分城・家代・七山),宮崎郡のうち23か村(瓜生野・上北方・名田・下北方・上別府・池内・南方・村角・大島・大田・福島・源藤・庵屋・船引・生目・大塚・細江・長嶺・浮田・跡江・柏原・富吉・小松),那珂郡のうち4か村(吉・下別府・江戸・新別府),児湯郡のうち9か村(穂北・童子丸・三宅・清水・調殿・右松・岡富・黒生野・現王島),諸県郡のうち1か村(須志田)の合計106か村(寛文朱印留)城下町が拡充されたのは有馬氏の時代で,天和元年元町・紺屋町・博労町,明暦元年柳沢町が新たに設けられ,以前の南・中・北の3町を加えてここにいわゆる延岡七町が完成した明暦元年には本丸を修築し,三層の櫓を建てたなお,県が延岡と改称したのも,有馬氏の時代であるまた,肥後境や豊後境の山奥に番所を設け,港には津口を置いた「日向国史」下によれば,明暦年間頃の番所は高千穂(日向・豊後・肥後3国の境界),飛瀬口・廻淵・波帰瀬(肥後境界),三本松・八戸(豊後境界),笹野(高鍋藩領界),穂北(米良境界),黒生野(佐土原藩領界),下別府津口にあったまた,同書によると,明暦年間の領内の竈数1万2,516・人数6万4,452(男3万6,322・女2万8,130)延宝7年11月有馬康純は隠居し,清純(初め永純)が後を継ぎ,弟正純に新開地1,800石,同じく弟純正に新開地1,000石を分知した元禄3年3月19日臼杵郡山陰【やまげ】の300戸・1,422人が一斉に村を離れて高鍋藩領股野原に逃散した年貢の重課と郡代梶田十郎左衛門ら地方役人の誅求が主な原因で,農民は帰村の命令に応じず,やがて幕府の裁許にまで発展した大事件となり,九州逃散のはじまりとまでいわれる世にいう山陰一揆である逃散農民は翌4年6月幕府による帰村命令が出されるまで帰村せずに頑強に抵抗し,同月頭取百姓21人は磔・打首・遠島などの極刑に処せられたが,同時に藩主有馬清純は政道不行届として越後国の無城知糸魚川に転封,郡代梶田十郎左衛門は60か国御構【いの】追放となった有馬氏に代わって入部したのは,下野国壬生城主三浦明敬で,領知は2万3,000石であった藩領は城付地に限定され,延岡藩の藩主としては最も小さな大名であったが,三浦氏は譜代大名であり,以後延岡藩が譜代藩となっていく画期となったまた,この延岡藩領の縮小にともない,日向国における幕府領が大規模に出現した元禄5年に新設された幕府領は,臼杵郡富高村を中心とする7か村(天領富高と称する),那珂郡江田村・宮崎郡船引村など6か村,児湯郡穂北村など10か村(天領穂北と称する)である正徳2年7月三浦氏は三河国刈谷に移封され,代わって三河国吉田から牧野成央が8万石で入封した所領は,臼杵・宮崎・児湯の3郡のほか豊後国大分・国東【くにさき】・速見の3郡にも及んだ三浦氏は農政になかなか熱心だったようで,とくに家老藤江監物が10年の歳月を費やして享保19年に完成させた岩熊井堰は有名で,これにより城下町に隣接する出北村・恒富村は一面の美田となった明敬は享保4年卒去し,後を貞通が継いだが,三浦貞通は延享4年3月19日常陸国笠間に転封した同日延岡に転封を命ぜられたのは,陸奥国平藩主内藤政樹である以後内藤氏は,政樹・政陽・政脩・政韶・政和・政順・政義・政挙と明治4年の廃藩置県まで8代にわたって在封した内藤氏は7万石を領知し,所領は延享4年の「拝領諸村高帳」(日向国史下)によれば,宮崎郡のうち21か村(25か村ともある)・拝領高2万4,693石余,臼杵郡のうち57か村(65か村ともある)・拝領高2万4,674石余・改出1万457石余,豊後国大分郡のうち35か村・拝領高1万38石余・改出15石余,同国国東郡のうち32か村・拝領高7,621石余・改出23石余,同国速見郡のうち16か村・拝領高2,971石余・改出3石余の合計5郡内161か村あるいは173か村,拝領高7万石,改出1万499石余明治2年の竈数石高人別調帳(明治大学蔵内藤家文書)によれば,藩領は臼杵郡のうち60か村(北方・南方・岡富・祝子・稲葉崎・粟野名・大武・川島・長井・川内名・三川内・宮野浦・市振・古江・熊野江・須怒江・浦尻・出北・恒富・大貫・三須・三輪・伊福形・土々呂櫛津・鯛名・赤水・庵川・加草・尾末門川・川内・黒木・入下・宇納間・田代・立石・小原・水清谷・神門・鬼神野・上渡川・中渡川・山三ケ・山陰・七折・岩戸・山裏・三田井・下野・上野・田原・川内・五ケ所・鞍岡・三ケ所・押方・向山・岩井川・分城・家代・七ツ山,なお七折以下を高千穂17か村という),宮崎郡のうち21か村(下北方・名田・上北方・池内・花ケ島・南方・村角・大島・上別府・大塚・浮田・生目・長嶺・富吉・柏原・跡江・小松・瓜生野・太田・源藤および細江村のうち),大分郡35か村,国東郡33か村,速見郡16か村の合計165か村(日向国81か村・豊後国84か村)所領は,大別して3ないし4つに区分できる第1は城下町延岡を中心とする臼杵郡の村々で,いわば城付地であるが,延岡がある小さな平野を除けばほとんどが山である第2は宮崎郡の村々で,村数はわずか21か村だが宮崎平野の中心部にあり,生産力は高い第3は北の豊後国の所領で,一円所領ではなく3郡に分かれ,延岡藩としては飛地領であるほかに公式には城付地の一部だが,実態としては城付地とは区別される高千穂地方で,険しい山間の地であるこれらの村々に対する藩の地方支配の組織は,郡奉行の下に代官が置かれた高千穂を除く城付地は北方・南方・恒富・岡富・六箇・門川・田代・山陰の8組(譜代藩の研究)あるいは岡富(9か村)・六箇(8か村)・両名(3か村)・恒富(10か村)・門川(5か村)・田代(4か村)・神門(3か村)・山陰(1か村)の8組(延岡市史)に分かれ,それぞれに代官がいた高千穂地方17か村は宮水代官所が置かれ,宮崎領は大島跡江・瓜生野の3組(譜代藩の研究)あるいはこれに大田組を加えた4組(延岡市史)に分かれ,これを下北に置かれた宮崎代官所が統轄した豊後国内は大分郡の千歳代官所(現大分市内)が支配した日向国内は,高千穂地方を除いて各組に大庄屋がいて,その下に各村に庄屋がおり,豊後国内は組の称はないが各郡ごとに大庄屋が置かれていた高千穂地方は大庄屋がおらず,各村に庄屋がいるだけであったが,旧土豪の地侍的性格をもつ小侍・足軽が各村に分布し,給地1石などを与えられて高千穂地方の有力者として藩の地方支配に大きな役割を果たした藩領内の各村の内部には,いくつかの集落(小村)が集まった門【かど】という単位があり,各門に弁指が置かれて行政の末端としての役割を果たしていたこの門がいくつか集まって近世の行政単位としての村(庄屋)となっていたこの意味で,有名な薩摩の門とは性格を異にする城下7町の支流は名字帯刀を許され知行地を給された町年寄3人がおり,その下に町ごとに部当1人・乙名2人が置かれた藩は城付領の要地に口屋を置き,1~3人の口屋番,1~2人の添番を配して人々の出入りを監視し,また船舶・貨物から口銀を徴収した口屋の所在地は,城付領では川口・潮坪(川島村内),宮野浦(豊後佐伯領境),土々呂,尾末,古川(門川組内,細島幕府領境),無鹿(粟野名村内),八戸(河内名村内,豊後竹田領境),猪野市(河内名村内,豊後境),祝子,松山,岩熊(三輪村内),八峡川(曽木村内),田野原(水清谷村内),山陰では桂原・広瀬(山陰村内),高千穂では川内(肥後熊本領境),波帰,廻淵,飛瀬,三木松の21か所であるこのうち猪野市・八戸・川内・飛瀬・廻淵・古川・宮野浦の口屋は,さらにその支所ともいうべき小口屋をもっていた内陸防衛の口屋番所に対して,海岸防衛の遠見番所があり,有馬氏時代には細島・宮野浦・赤水に備えがあった内藤氏時代の藩の職制には,重職として家老・組頭・年寄・用人・用職をあげることができる組頭は家臣団をいくつかに分けて組織した組の長で,知行は1,000~600石,この組頭から家老に昇進した用職は番頭などを務める要職で,用職として番頭・者(物)頭・中小姓頭・留守居・御使番・宮崎重役・豊後重役・郡奉行・町奉行・寺社奉行などがある奉行にはこのほかに作事・船・長柄・普請・矢倉・御金の各奉行がいた特筆すべきものとして本〆方があったこれは諸役の連絡調整を図り,財政の決定権をもつ機関で,江戸では蔵米の売却や藩出役の財政をも司掌した藩財政は,「金はないそう(内藤)貧乏の守(備後守)」とざれごとにいわれたように,かなり厳しかったもともと内藤氏は,旧領平でも7万石の大名であり,領知高は同じであったが,同じ7万石でも平と延岡とでは実収にかなりの差があった宝暦9年の「御先領御上ケ地并当御領御渡高之覚」(明治大学蔵内藤家文書)の計算によれば,平では実高が10万石を超えるのに延岡では8万石を超すにすぎず,収入は米3万2,000俵弱減,大豆3,800俵余増,金2,300両弱減で,金に換算すると1万3,000両余の減になっているすでに同年には3万3,000両の赤字を背負っており,幕末の安政2年の負債額は,江戸で42万両,大坂で26万両,延岡で10万両の合計78万両もに及び,藩総収入の20倍にもあたり,年々の利子返済額は全収入の56%を占めることになった本年貢の米納収入は城付地・宮崎・豊後の順に多いが,高千穂は石高のわずか10%足らずの米納率で,茶・苧・紅花・真綿・漆など山地生産物の代銀上納が中心であった藩は収入増加を図るため国産品の専売制を実施した有馬氏時代には大坂御払いの産物として漆・材木・麻苧・竹・半紙・菜種・胡麻・唐胡麻・勝栗・椿実・縄があげられている(国乗遺聞)内藤氏時代になると専売制が強化され,天明5年の紙漉立会所の設立をはじめ,寛政12年宮崎紙座,文政6年紙方会所,天保5年皮方会所,嘉永元年塩座,安政元年陶器売捌会所などが設立されているまた,輸入品の特定商人専売も行われ,文政年間にはろうそく・石灰・鉄刃鉄の輸入を禁じて特定商人に領内一手販売を命じ,天保年間には紀州膳椀・白塩硝・樟脳も加えられ,弘化年間には山蚕・傘・黒砂糖・茶椀焼土・煎茶・陶器・油・合薬・干鰯・入薬・醤油・塩・元結など多岐に及んでいる有馬氏の代には馬の牧が細島牧(幡浦)・細島新牧(米ノ山)・庵川牧の3か所にあった宝暦13年の調査によれば,領内に銅山は15か所にあり,このうち高千穂には山裏村に土呂久・尾八重,鹿川に釣鐘・尾野平,鞍岡村に鞍岡・市之瀬・長峰・島之瀬の計8銅山があった明和2年には殖産興業の一環として土々呂銅山・日平銅山の藩営採掘を試みている延岡藩に発生した百姓一揆は31件が記録され,領主別では有馬氏の代に2件,牧野氏の代に5件,内藤氏の代に24件,地域別では城付地4件,高千穂13件,宮崎8件,豊後6件である理由は年貢減免要求がもっとも多く,次いで庄屋などへの不満があげられる一揆の形態は逃散が多く,日向最大の百姓一揆となった山陰一揆も,宮崎地方騒動,山裏騒動なども逃散形態をとった明治2年の竈数石高人別調帳(明治大学蔵内藤家文書)によると,戸口は日向国臼杵郡1万3,892戸・7万7,098人(男3万9,934・女3万7,164),うち高千穂3,498戸・2万2,441人(男1万1,848・女1万593),宮崎郡3,395戸・1万3,428人(男6,962・女6,466),豊後国大分・国東・遠見3郡4,678戸・2万5,663人(男1万3,599・女1万2,064)で,総計2万1,965戸・11万6,189人(男6万495・女5万5,694)明治初年の「藩制一覧」によると,所領は5郡165か村,本高7万石,草高8万1,815石余(うち1万499石余前々出高,1,315石余延享4年後改出高),正租高2万8,010石余(5か年平均,免3つ4分9厘7毛),雑税高米にして896石余,諸産物は炭・大平墨・材木(松・椴・栂・槻・雑木)・杉・茶・椎茸・麻苧・銅・紙・ロウ・藻草など,戸数2万3,960,人数12万4,966,神社数1,507明治4年2月22日,当藩の豊後領と日田県の管轄となっていた日向国内旧幕府領とが交換となり,延岡藩豊後領3郡内83か村2万786石余が日田県に編入し,代わりに旧幕府領の諸県郡9か村・6,378石余,宮崎郡4か村・3,151石余,那珂郡13か村・1万3,208石余,児湯郡10か村・7,620石余,臼杵郡8か村・5,690石余の合計44か村・3万6,050石余が当藩領に編入した同年7月14日廃藩置県により延岡県となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7460667 |