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平野村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。日向国那珂郡のうち。飫肥藩領。飫肥郷に属す。村高は,慶長10年1,333石余(御検地古今目録/日向国史下),元禄11年「日向国覚書」でも1,333石余,寛保2年には1,701石余(同前),「天保郷帳」では1,333石余,「旧高旧領」では1,748石余。「御検地古今目録」(日向国史下)によれば,慶長10年の反別は田畑屋敷合わせて119町9反余,寛保2年には同じく109町6反余。地内油津には油津地頭が置かれ,天保初年には中小姓格30石の湯地伴五郎が勤めていた。また天保初年の油津津口番添役として,歩行格25石の川崎藤右衛門と同23石の河野豊四郎がいた(飫肥藩分限帳)。油津は飫肥藩の外港として栄え,飫肥山中の杉材を同港に運ぶ運送路として,堀川(油津運河)が開削されている。堀川は広渡川の西涯から油津港へ通じる水路で,長さ15町・幅12~20間,天和3年~貞享3年の28か月で竣工した。弘化・嘉永年間,隣村の隈谷村の村民が協力して,地内松田越・桜ケ峠に防風のための松を植林した。地内南部にある池ケ山は海へ突立していることから,幕末期に藩主伊東祐相がここに海防のための望遠台を置き,船舶の往来を監視させた。地内梅ケ浜は油津港北部から広渡川河口辺りに広がる海浜で,浮世絵師安藤広重は一国一景を描くにあたって同所を日向国の代表に選んでおり,また明治期の「日向地誌」でも「平沙明媚乱松相映シ……画図モ及ハサル絶勝」と記している。「天保五甲午年宗門改人数高」(近世飫肥史稿)によると西筋に属し,村内は平野村と油津村に分かれ,人数は平野村665(男375・女290),油津村1,364(男755・女609)。神社は堀川橋の西畔に吾平津媛を祀る乙姫大明神があり,明治5年に村内の八幡・春日・稲荷・妻万の4社を合祀し平野神社と改称した。寺院は梅ケ浜の東側丘陵に永興寺,正行寺山の北麓で堀川の南涯に建法寺,正行寺山の北麓に応感寺,堀川の東岸山麓に浄土宗正行寺,堀川の西岸に林光寺,沢津城址の南麓に天福寺,鶴ケ嶺の東畔に真言宗長満寺,東光寺扇形に真言宗東光寺,石本に石本寺があったが,いずれも明治5年に廃絶した。このうち永興寺は往古は12支坊をもつ大伽藍であったといわれ,正行寺は慶長年間の創建,林光寺には江戸期に官倉が設置されたと伝え,東光寺は「日向纂記」で弘治年間に寺名が初見されるという(日向地誌)。明治4年飫肥県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同17年南那珂郡に属す。明治7年下戸高村を合併。同村域は当村の字東光寺の地にあたる。戸長役場は字油津に置かれ,当村および周辺の戸高・西弁分・隈谷の計4か村を管掌していた。明治13年,油津港内東海岸に胴まわり6尋半・長さ13尋のながす鯨が現れ住民を驚かせた。同15年,大分県の留恵社が大阪商船会社の代理店を油津に開き,阪神・豊後地方を対象に海運業を始めた。同年に油津漁船が長崎県五島方面で初めて鰹の遠洋漁業を行った。「日向地誌」の著者平部嶠南が当村に調査に訪れたのは明治9年3月22日で,同書によれば,村の規模は東西約25町・南北約1里4,5町,東は平山村,西は西弁分村,西南は熊谷村,北は戸高村・殿所村と接し,宮崎県庁からの里程は南へ約12里6町,地勢は「東ハ西川ヲ帯ヒ南ハ南海ヲ擁シ西南ハ草岡ヲ負ヒ北ハ平田ニ接ス,運輸至便魚蟹ノ利多シ」「薪炭ハ乏シト雖モ芻秣ハ自給スルニ足レリ」と見え,地味は田の土質中ノ上,畑の土質上ノ下,水利はよいが水害も多いという。また,税地は田195町余・畑45町余・宅地26町余・切換畑30町余・山林28町余・原野14町余・藪2町余などの計392町余,無税地は計1町余,官有地は山林5反余・海岸空地1町余・附寄洲1町余などの計3町余,貢租は地租金2,577円余・雑税金3,095円余の計5,672円余,戸数758(うち神社1)・人数3,250(男1,666・女1,584),牛2・馬230,舟130(うち200石積以上5),村内の字地別戸数は東光寺20・油津424・梅ケ浜330・建法寺17・林光寺7・石郷7。学校は人民共立小学校が本村の中央(生徒数は男90・女15)と油津(生徒数は男72・女35)の2か所にある。戸長役場は本村の中央石本と油津の2か所にあり,油津の北,堀川の北岸には造船場があった。民業は農業専業241戸,商業専業172戸,漁業専業269戸,農間に工業に従事する者69戸,製履業13戸がいた。物産は鰹6万尾・羽鰹1,500尾・鰺30万尾・鯖10万尾・鰮120万尾・鰘10万尾・甘小鯛3万尾・万引5,000尾・魣5万尾・鮸100尾・鰤300尾・烏賊1万5,000尾。さらに用水は高樋溝・馬越溝・円池溝・平城溝・七迫溝・海田溝があり村内の水田灌漑に供し,道路は飫肥本町駅往還・大堂津間道が通ると記される。明治16年字油津は当村から分村して油津村となる。同21年の戸数284・人口1,507,反別は田195町余・畑68町余・宅地16町余・池沼2町余・山林29町余・原野12町余・雑種地3町余の合計328町余,諸税および町村費の納入額は国税2,532円余・地方税928円余・町村費162円余・協議費22円余,村有財産には原野6町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年吾田【あがた】村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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