恩納村(近世)

王府時代~明治41年の村名。国頭方,はじめ金武間切,康煕12年(1673)からは恩納間切のうち。慶長14年の島津の侵入に際して,王府役人が首里から今帰仁【なきじん】へ行く途中,倉波(現在山田のうち)から恩納村に着き,翌朝船出している(喜安日記/那覇市史資料1‐2)。「高究帳」には高頭228石余うち田179石余・畑49石余。恩納間切の創設に伴い,番所が置かれた。以来,行政的にも人口的にも間切の中心であった。総地頭(佐渡山)の田畑のほとんどは恩納村内にあった。雍正12年(1734)の恩納間切の覚には,村内に佐渡山親雲上の面付3万3,423坪とある(地方経済史料9)。古来景勝地として名高く,尚敬王や尚穆王も来臨している。中国文人王文治の書いた「数峯天遠」の刻字額は,今も村役場に保管される。村を抱護する松林やフクギの森が美しい景観を呈していた。尚穆王代(1752~94)に生きた恩納ナベが,当時の政治を風刺した琉歌「恩納松下に禁止の牌の立ちゆす恋忍ぶまでの禁止やないさめ(恩納の松の下にいろいろの禁止事項を書いた掲示板があるが,恋をしてはいけないとまではあるまい)」にある番所前の大松,「恩納岳のぼておし下り見れば恩納松金が手振りきよらさ(恩納岳に登ってはるか麓の方を見ると,恩納の松並木の枝ぶりがとても美しい)」にある松の抱護林などがあった(琉歌全集31・55)。王府の政治家で君子親方といわれた与那原良矩の歌「恩納村はずし先年と変わて道挟で松の並みの清らさ」にある西宿両側の松並木などもあったが,今はすっかり消失してしまった。道光8年(1828)頃には,村は疲弊し諸上納物も滞納していた。松姓3世紀喜は道光5年・8年と恩納間切検者となり,村の水利を改善し,年来の荒地を開墾して村の再建を図っている(松姓小宗家譜/那覇市史資料1‐8)。咸豊4年(1854)頃の恩納間切の諸上納物割付定には間切内最高の61人とある(地方経済史料9)。「ペリー訪問記」にはウンナ(Un-n
a)・ウナ(Una)と見え,「我々は,この島の最も美しい場所の一つに到着した。そこは,嶮しい岬の上に位置を占め,松の木や,榕樹や,蘇鉄などがはびこっている部落であった……清い水を湛えた小川が,極く鮮かな緑に覆われ,美しい松林がその上に差し懸っているこの谷間を縫うて,流れていた。それは何処の国にも滅多に見出されないような田園美を備えた一幅の絵であった……その村は,大部落で繁栄していた。それは英国の庭園のように小奇麗に地取りされ,垣がめぐらされてあった」と記している。ペリー探検隊は恩納で一泊し,湾曲した浜伝いの宿道を通らずに,赤崎の浜から一直線に対岸に向かって干潮を利用してたどって行った。この記事に見える松林は第2次大戦後消失し,田園も畑地と化した。「由来記」にはヤウノ嶽(三御前)・浜崎嶽・恩納ノロ火の神・城内之殿・カネクノ殿・神アシャギがあり,恩納ノロの祭祀。恩納ノロは公事ノロといわれ,首里王府の任命。その辞令書は万暦12年(1584)にも見られる(恩納村誌)。近世末期から明治期にかけて馬場・赤崎・屋嘉田の屋取が形成された。馬場集落は,明治7年頃迂回していた西宿を改修し,恩納集落に向かって直線の新道としたときに,年輪測定200年前の植林とされる松林中に開かれた集落である。旧宿道沿いにあった民家が,新宿道の沿線に移動している。赤崎集落は,道光10年(1830)頃,2戸の士族が田舎下りしたのに始まる。屋嘉田集落も,約140年前に移住してきた2戸に始まり,その後移住者と分家分出によって拡大した集落。屋嘉田潟原の浅海は,魚介類が豊富で,潮干狩りと漁火の夜景は格別であったが,今は枯死の海と化してしまった。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。明治15年恩納小学校創設。同31年9月,砂糖樽検査所設置(県史16)。戸数・人口は,明治13年177・824(男401・女423),同36年198・995(男472・女523)うち士族61・391。明治36年の民有地総反別377町余うち田47町余・畑107町余・宅地11町余・山林160町余・原野50町余(県史20)。同41年恩納村の字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7464088 |