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川平村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。八重山島,はじめ川平間切,崇禎元年宮良間切,乾隆33年(1768)からは石垣間切のうち。川平村は古くは仲間村を中心とした大口・仲栄【なかや】・久場川・西・慶田城【けだぐすく】・平得・内原・田多の9つの小村からなっていた(川平村の歴史)。康煕25年(1686)に来島した沖縄本島久米村の外間親雲上の風水鑑定により,村敷替えが指令され,仲間・田多・仲栄・大口から久場川(現通称上の村)・内原(現通称下の村)へ移住が始まった(八重山島年来記/県史料前近代1)。のち他の西・慶田城・平得の3か村も上・下の村へ移住したが,この移動は漸次行われ,終了したのは明治42年であった。久場川村は,川平村の発祥とされる仲間村の5つのムトゥヤ(元屋)が移転したことから親村と称される。久場川の次男・三男の分家は内原村の方にのび,ここには本家だけが残る傾向にある。雍正10年(1732)属地の野底に与人・目差が置かれ,野底村が村立てされた。乾隆36年(1771)の明和の大津波では人口951のうち32人は,公事で石垣に滞在中に溺死し,田1町余・畑10町余に被害があった(大波之時各村之形行書/生活史料7)。さらに同40年以来,疫病・飢饉・風旱の災いが続き困窮した。役人は開墾・猪垣修復などで村の再建に努めた(益茂姓小宗家譜)。川平湾は貢納物を集積する八重山三湊の1つで,川平・崎枝・桴海・野底・平久保・伊原間【いばるま】6か村の貢納物を集める(八重山島諸締帳/八重山文化5)。「由来記」は5つの御嶽を列挙するが,いずれも由来不明としている。このうち稲干・山川・宮鳥・浜崎の4御嶽を四ヤマという。稲干御嶽は川平村の中心的な御嶽で,重要な年中行事である結願祭をはじめ,他の祭儀もここを中心に行われる。伝承によれば,川平村の宗家の南風野家の娘が,ある夜中天にある群星と南風野家の庭の間を霊火が昇降するのを見た。この現象はその後も続き,霊火の降下する場所を調べると神の標章が記されていたため,そこを聖地として崇敬したのが始まりという。大正初期に群星御嶽と改めた(川平村の歴史)。山川御嶽は宮古島の山川集落から分祀したものという。香炉は宮古島の方に向き,シーヌ願い(猪害防止の願い)が行われる。宮鳥御嶽は「由来記」に赤イロ目宮鳥御嶽とある。かつて野補佐・馬補佐の牛馬監督の報告は,石垣村の宮鳥御嶽の神にする慣例であった。しかし川平村は遠方に位置しているため,宮鳥御嶽の神を分祀したのに始まるという。川平村にはマユンガナシが旧暦2月に来訪し,五穀豊穣,村の繁栄を祈り,9月の節祭に帰るとの信仰がある。乾隆33年の「与世山親方八重山嶋規模帳」には平久保・桴海・川平・崎枝の4か村でこの風習を禁止したと見えるが(沖縄旧法制史料集成3),現在も川平には伝承されている。マユンガナシは上の村と下の村とは別々に現われ,マユンガナシのカンフチィ(神口)にも差異があり,上の村の方が長大である(カンフチィ1・2/歌謡大成Ⅳ)。村位は,「里積記」では布・石ともに上位(那覇市史資料1‐2),「人頭税賦課基本台帳」では仲筋村と2か村で布・石ともに上位と見える(八重山博物館蔵新本家文書)。明治12年沖縄県,同29年八重山郡に所属。戸数・人口は,明治13年65・265(男118・女147),同36年67・295(男149・女146)うち士族12・54。明治36年の民有地総反別464町余うち田40町余・畑86町余・宅地6町余・山林80町余・原野109町余・牧場141町余(県史20)。同41年八重山村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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