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越来間切(近世)


 王府時代~明治41年の間切名。中頭方のうち。越来郡・越来県とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では与儀・比屋根【ひやごん】・大里・胡屋・仲宗根・南風原【はえばる】・西原・上地【うえち】・大工廻【だくじやく】・知花【ちばな】・池原・恩納【おんな】・楚南【そなん】・山城【やましろ】・伊波【いは】・嘉手苅【かでかる】・石川・高原・宮里・登川・赤崎の21か村。「高究帳」では合高4,381石余うち田2,479石余(永代荒地555石余を含む)・畑1,901石余。康煕5年(1666)には一部が美里間切となり,同11年にも美里間切との間に境界の変更があった。ほかに中城【なかぐすく】間切・北谷【ちやたん】間切との間に境界の変更や,新設村・廃村・村名の改称などがあった。「由来記」「旧記」では胡屋・仲宗根・越来・上地・大工廻・諸見里【もろみざと】・山内・照屋・河陽・安慶田【あげだ】の10か村となり,その後河陽村が宇久田村に改称したと思われ,10か村をもって近代に至る。間切番所は越来村に置かれた。明治期に杣山は167万6,803坪と計上され(地方経済史料9),中頭方の杣山を管理する中頭方山奉行も越来間切大工廻村に置かれた。「由来記」によると,大工廻村の勢頭親部という者が初めて炭・鍛冶炭を焼いて,これを国王に献じ,田地を賞賜せられたとある。炭焼をいつ頃から始めたか明らかではないが,宇久田・大工廻の両村は古くから木炭の主産地として知られていた。道光24年(1844)には疲弊がひどく,王府は所帯方吟味役を派遣し,間切の再興にあたらせた(球陽尚育王10年条)。越来間切では地割が行われなかったこともあってか,首里・那覇【なは】の士族が土地を求めて流入し,多くの屋取を形成した。拝所は,御嶽と森13・殿9・ノロ火の神3などがあり,3人のノロがそれぞれ管掌する村の祭祀を司った(由来記)。明治12年沖縄県,同29年中頭郡に所属。同30年間切番所を間切役場と改め,同40年胡屋村に移した。戸数・人口は,明治13年1,202・5,194(男2,591・女2,603),同36年1,417・6,894(男3,496・女3,398)うち士族656・3,534。明治36年の民有地総反別1,724町余うち田136町余・畑968町余・宅地82町余・山林442町余・原野89町余・雑種地5町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の越来村となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464331