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島尻村(近世)


 王府時代~明治41年の村名。久米方,はじめ久米島中城【くめじまなかぐすく】間切,康煕6年(1667)からは仲里間切のうち。「高究帳」では久米島中城間切嶋尻村と見え,高頭62石余うち田49石余・畑13石余。「由来記」に仲里間切島尻村と記す。もとは,現集落北方の丘陵上,クサト原に位置していた。のち島尻川河口の砂州に移動し,順治5年(1648)には兼久【かねく】村と記された(球陽尚質王元年条)。移動は,1,2戸ずつ徐々に行われ,昭和15年頃まで数戸がクサト原に残っていた。現在でも古島と呼ばれるクサト原には屋敷跡がある。しかしタマカシ原の集落跡は耕地整理によってほとんどが畑地になっている。水利が悪く干害が多かったため,同治年間(1862~74)に真謝佐於宇井の樋の改修や,堤井の架設,水道開削などが行われた(球陽尚泰王15年条・17年条)。御嶽は,比嘉御嶽・黒洲御嶽がある(由来記)。古謡には,「大雨乞之時島尻ひや火之前ニ而御たかへ言」にヨネの森・寄リ上ゲ森,「いしたうね雨乞御たかへ言」にケロウ地・カナフチといった聖地が見える(オタカベ9・15/歌謡大成Ⅰ)。昔,島尻村に一晩のうちに南蛮まで往復し,胡椒を持ち帰った女性がいたという伝説がある。島尻岬の沖に停泊していた南蛮船に通ったものと思われ,「球陽」にも,道光22年(1842)島尻大口に異国船が来たという記事があり(尚育王8年条),南蛮船などと接する機会も多かった。北東部の海岸に近い丘上にある古い石積みの墓がこの女性の墓といわれ,ヌバルバカと呼ばれる。ヌバルはナバル(南蛮)の転訛したものという。明治12年沖縄県,同29年島尻郡に所属。戸数・人口は明治13年48・189(男94・女95),同36年46・268(男130・女138)。明治36年の民有地総反別108町余うち田25町余・畑27町余・宅地5町余・山林9町余・原野41町余(県史20)。同41年仲里村の字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7464441