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名護間切(近世)


 王府時代~明治41年の間切名。国頭【くにがみ】方のうち。名護郡・名護県とも書く(旧記・球陽)。「絵図郷村帳」では喜瀬・幸喜・久田・世冨慶【よふけ】・数久田【すくた】・名護・宮里・宇茂佐・屋部・安和【あわ】・山入端【やまのは】・大浦・瀬嵩・汀間【ていま】・安部【あぶ】・嘉陽・天仁屋【てにや】・有銘【あるめ】・慶佐次【げさし】・平良【たいら】・川田・城【ぐすく】・いだ・上おほら・かねく・かてかる・はまの27か村。「高究帳」では合高1,651石余うち田1,517石余(永代荒地382石余を含む)・畑133石余。康煕12年(1673)東海岸に位置する村々が久志間切の一部となる。他村に編入された村などもあって,「由来記」では喜瀬・幸喜・許田・世冨慶・数久田・名護・宮里・宇茂佐・屋部・安和・山入端の11か村となる。名護村は,名護三箇を指すもので,王府時代末には東江・大兼久・城の3か村として見え,13か村をもって明治期に至る。按司地頭は,康煕6年尚質王第3子の向朝元が任じられ,以後9世朝忠まで世襲した。総地頭は,尚寧王代(1589~1620)馬姓2世世栄が任じられ,以後康煕45年に任じられた7世如飛まで続いた(馬姓大宗家譜/那覇市史資料1‐7)。雍正6年(1728)には文人・学者としても有名な程順則が総地頭になった(程氏小宗家譜/同前1‐6)。名寄帳では田487反・畑445反で計932反,竿入帳では田3,424反・畑1,339反で計4,763反,うち百姓地2,114反・仕明地1,368反・その他(県史21)。18世紀中頃には高845石余うち納米370石余・納雑穀8石余・諸出米36石余,戸数221・人口884(事々抜書)。特産物として欝金が指定され,サトウキビの栽培は禁止されていた。18世紀中頃の欝金の産高は2,505斤(同前)。米や鬱金は,許田村の湖辺底に集められ,薩摩に運ばれた。拝所には,御嶽と森が14,ノロ火の神3,神アシャギ11があって,名護・喜瀬・屋部の3人のノロが,それぞれ管掌する村の祭祀を司った(由来記)。明治12年沖縄県,同29年国頭郡に所属。廃藩置県を境に,移住してくる士族が増加した。明治20年代後半から杣山の開墾が始まり,同30年までに146戸(うち士族36戸)が入植し,30万坪余が開墾され,そのうち山藍畑15万坪余・サツマイモ畑12万坪余(名護市史資料編2)。明治16年の調査によれば,地割は人頭割を基本として,年齢により配当地を定めた(県文化財調査報告書6)。明治中期~後期の農業は米とサツマイモが中心で,米の作付面積は明治23年125町余,同35年198町余,同40年343町余で,反収は6~8斗。サツマイモは,明治23年の作付面積が105町余,同35年129町余,同40年374町余で,反収は1,500斤前後。そのほか,サトウキビは王府時代を通じて制限されていたため,明治23年の作付面積は12町余,同35年78町余,同40年122町余で,同40年においても米の3分の1程度である(県統計書)。山林は,明治29年には3,554町余りあり,うち杣山2,940町余(仕立山19町余を含む)・村山野610町余。同年の林産物のうち薪は541万3,000貫を産し,県内では座間味【ざまみ】間切に次いで多く,炭は3万5,100貫で,今帰仁【なきじん】間切に次ぐ産出高である(同前)。名護湾は,春から初夏にかけてヒートゥ(クジラ)狩りでにぎわい,明治35年に名護湾周辺の村々と糸満の漁師が捕獲したヒートゥは130頭余であったという(名護市史資料編2)。明治15年羽地間切親川村から,国頭役所・警察分署が大兼久村に移された。同年東江村に名護小学校設置,同20年屋部村に,同21年幸喜村に分教場を設けた。同23年国頭高等小学校が創立されたが,同35年に廃され,高等科は名護小学校に併置され,跡地には国頭郡組合立農学校が設立された。以後,名護間切は沖縄本島北部地方における行政・教育の中心地となる。同36年東江村・大兼久村・城村が合併して名護村となり,名護間切は11か村となる。戸数・人口は,明治13年1,555・8,152(男4,231・女3,921),同36年2,207・1万2,393(男6,253・女6,140)うち士族374・2,456。明治36年の民有地総反別3,265町余うち田364町余・畑862町余・宅地85町余・塩田9町余・山林627町余・原野1,310町余・雑種地4町余(県史20)。同41年島嶼町村制により自治体の名護村となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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