下葉場村
【したはばむら】

旧国名:陸奥
(中世)戦国期に見える村名。伊沢郡のうち。天文17年8月8日石河長九郎は郡主柏山明吉より「伊沢郡下葉場村に而三千苅」を給された(半入石川彦次郎文書)。永禄6年2月11日には石川肥後守が葛西高信より「伊沢郡下葉場村三万苅」を給され(同前),天正9年7月7日には石川彦次郎が葛西晴信より「下葉場村にて二千苅」を給された(平泉地蔵堂文書)。江戸期には北下葉場村・南下葉場村となっている。南下幅郷田(現胆沢町南都田字机地)の机地館は胆沢町役場北方0.8km,盛興院の境内一帯の地。東西80m・南北80mの方形居館跡。北辺に水濠跡があった。館主は柏山伊勢守の家臣,机地平蔵と伝える(仙台領古城館)。築館にも古館(館主不明)があったという(安永風土記)。南下葉場化粧坂(現胆沢町南都田)の瀉(潟)岸薬師堂は欽明天皇の御願,肥前国松浦佐衣(小夜)姫の勧請と伝える。瀉岸明神の大蛇に供える生贄として買い取られてきた姫が化粧坂にて法華経を誦え薬師如来に念じたところ,大蛇は恐れをなして退散したという。大蛇は掃部長者の妻が悪行の業因によって変身せしめられたもの。見分山薬師寺は姫の念じた薬師如来を祀る。薬師寺荒廃ののち土中から発掘された石仏薬師如来を祀るのが瀉岸薬師である(同前)。清水下屋敷の蛇清水跡は長者の妻が蛇身となるときに飲んだ清水と伝える(同前)。宇南田の観音堂は梵字のある石を本尊とする(同前)。中世の板碑か。南・北下葉場両村境用水堰にも中世の板碑1基があった(同前)。道白森は平泉藤原秀衡が御軍配合図の鐘を懸けたところと伝える(安永風土記)。机地館の曹洞宗机永山盛興院は黄山東菊和尚の享禄年中開山と伝える。本山は胆沢郡内の報恩山永徳寺。東菊和尚は平泉藤原氏の末裔。羽州六郷の城主,六郷伊賀守の先祖に招かれて永泉寺を開山,次いで永徳寺10世となった人という(同前)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7600725 |