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五十里湖
【いかりこ】


塩谷郡藤原町と栗山村の境にある人造湖。鬼怒(きぬ)川の支流男鹿川下流に造られた五十里ダムに続く大型の多目的人造湖で,川治温泉(藤原町)の北約15kmにある。鬼怒川との合流地点付近に昭和25年6月着工,工費48億円で,同31年に竣工した。貯水池面積3.1km(^2),総貯水量5,500万m(^3),有効貯水量4,600万m(^3),有効水深25m。洪水調節のみならず,農業用水・発電などに用いられる。湖名は江戸から50里の地点であることによるという。湖の広がる水域は,男鹿川がつくった湖盆状の広い河谷で,これは,天和3年の日光大地震の際の男鹿川右岸葛老山(1,124m)の大崩壊による土砂崩壊によりせき止められ出現した古五十里湖が,40年後の享保8年大洪水で一大決壊を起こし(五十里洪水),水がはき出されて形成されたものである。この古五十里湖ができる以前には,河床には,五十里・西川の2つの村落があったが堰止湖の出現により,五十里31軒の大部分が現在上屋敷跡と称する地へ,また10軒が上流の独鈷沢名木戸(藤原町)へ,西川31軒が背後の山麓へ移住したという。五十里洪水後,湖底の村は再び水底から姿を現し,峻険で難所の多い中街道に代わって西街道の利用が復活すると再び繁栄したが,300年後の五十里ダム建設に伴う人工湖の出現により同集落の66戸が再度移転することとなった。会津藩は交通路を確保するために堰止湖の解消工事を試みたが果たせず,責任を負い自害したといわれる会津藩士早川条之助,高木六左衛門の碑が布抜山に残る。当時,湖には渡舟が使用され,会津と江戸を結ぶ交通が確保された。また,会津西街道は山麓の高い斜面に付け替えられ,現在の国道121号となっている。湖は現在,鬼怒川・川治および奥鬼怒温泉郷への観光客の訪れる観光地となっているが,冬季はほとんど貯水がなく,湖底に沈む旧村落の跡をみることができる。周辺にはダムサイト・海尻橋・展望台などがあり,春秋には訪れる人が多い。湖にはマス・フナ・コイなどが放流されており,付近一帯は県花ヤシオツツジの生息北限で,日本海側に多い北方植物オオイタドリも見られる。秋には多くのカモ類が越冬のため飛来する。五十里ダムは,重力式コンクリートダムで,堤高112m,堤頂長267m,堤体積46万8,000m(^3)。昭和31年8月,一部の付帯工事を除き,鬼怒川総合開発事業の一環として,総工費48億1,200万円を投じて竣工,洪水防止のための水量調節および発電を目的としている。ダムは有効落差110mの第一発電所,24mの第二発電所の2つの発電所を有し,最大出力1万7,700kw,常時6,230kwの発電を行っている。大正15年から昭和14年までの14年間にわたり総工費1,450万円を投じて鬼怒川改修工事が行われ,大正15年五十里ダムの前身である鬼怒川堰堤の工事が工事費350万円で始められた。しかし,地下30m地点で,幅25mにわたる数条の断層群および岩盤の亀裂に当たり,昭和8年に工事は中止され,同25年3か年計画で再開,建設省が対日援助見返り資金を得て取り組み,同26年度からは公共事業となり,鬼怒川改修工事を鬼怒川総合開発事業に改め,完成を目指した。建設当初には,このダムにより,鬼怒川沿岸の農地1,940ha,350戸が洪水の被害を免れた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7601530