100辞書・辞典一括検索

JLogos

24

臼杵荘
【うすきのしょう】


旧国名:豊後

(古代~中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。豊後国海部(あまべ)郡のうち。現在の臼杵市全域と津久見市の一部を含む地域と推定。当荘成立の経緯は不詳だが,大神惟盛を始祖とする大神系臼杵氏の開発であろうか。同氏は当荘を地盤とし,源平争乱期には臼杵惟隆(維高)が活躍しているが(玉葉・吾妻鏡・平家物語),大友氏の入国以後大友系臼杵氏に代わったものと思われる。「戸次系図」には大友親秀系の戸次貞直の三男時直が臼杵七郎直氏の養子になったと見えるが,これを証する史料はない。初見は治承4年5月11日の皇嘉門院惣処分状で,最勝金剛院領として「布こ,うすき・へつき」と見える(九条文書/平遺3913)。皇嘉門院は九条忠通の娘で崇徳天皇の后。九条家領として皇嘉門院が相伝するようになった経緯は不詳。当荘は皇嘉門院より九条兼実の子良通に譲られるはずであったが,良通の幼年を理由に最勝金剛院領となった。元久元年4月23日付九条兼実置文にも「最勝金剛院」領と見える(九条文書/鎌遺1448)。兼実は当荘を子の宜龝(秋)門院(藤原任子)に譲り,彼女の死後は孫の九条道家に相伝するよう命じている(同前)。建長2年11月日の九条道家惣処分状では当荘は「九条禅尼家領」とあり,道家がこれを管領(同前7250)。道家は当荘を孫娘の宜仁門院(藤原子)に譲与するが,「其後又右府(九条忠家)の子息にゆつらるへし」との条件を付した(同前)。「弘安図田帳」には「臼杵庄二百町 領家一条前殿下跡(一条実経)」と見える(大友史料3)。地頭職は駿河前司入道(北条業時か)とあることから,得宗領になっていたと思われる(同前)。ついで建武3年8月24日付左大将家政所注進当知行地目録案には「豊後国臼杵戸次庄領家職」とあり,九条忠家系の道教が領家職を帯していた(九条文書/岐阜県史史料編)。寛正2年8月日付大友親繁申状案に,「豊後国臼杵庄者為勲功之賞帯 等持院様(尊氏)御判令知行者也」と見えることから,南北朝期に当荘地頭職は大友氏の手に移ったものと思われる(大友家文書録/大友史料11)。貞和4年10月日付田原正曇奉書案では当荘内田畠得分20貫文足を曽根崎助三郎に宛行っている(矢治道夫文書/大友史料6)。永和元年7月5日後円融天皇は当荘を妙心寺別院玉鳳院に寄進(玉鳳院文書/大友史料8)。永徳3年7月18日の時点で大友氏の直轄領であった(大友文書/大友史料8)。永享5年9月20日大友持直は当荘内高崎又五郎太郎跡25貫を斎藤著利に授けている(大友家文書録/大友史料10)。持直は当時大内氏や大友親綱・親隆らと対立していたことからこの年幕府の追討を受けるようになり(満済准后日記),同7年6月29日当荘西端の姫岳に籠城,大内持世・河野通久らと対戦(看聞御記/大友史料10)。通久は討死にしたが,同年10月2日将軍義教は通久の子教通に父の忠賞として当荘を宛行った(諸家文書録/同前)。翌8年2月18日大友親綱も教通に安堵状を発した(同前)。なお親綱は同年7月28日には当荘内太25貫の地を斎藤著利に預けている(大友家文書録/大友史料10)。大友親繁の代の長禄4年12月荘の領有を主張する伊予の河野教通が,親繁から押領されたと幕府に訴え出た(大友家文書録/大友史料11)。これに対し親繁は翌寛正2年8月,「先年九州在陣之刻河野一旦申給兵粮料歟,其後如元領知仕被成下安堵状訖」と反論し,当荘に対する教通の競望を退けることを申請(同前)。年未詳であるが親繁は当荘内壇清次郎跡10貫・富来周防入道跡10貫・丹生将監跡10貫を右田左馬助に,また田口左馬助跡5段10貫・河野右京入道跡4段10貫を右田次郎に預け置くなど実質的な臼杵荘支配を進めている(右田文書/大友史料11・熊本県史中世史料4)。明応5年子義右と対立した大友政親は,荘内から筑前立花に向けて船出し,赤間関で大内方に捕縛され,のち自尽した(永弘文書/大友史料13)。戦国期に入り,大永4年11月13日付大友義鑑領地預ケ状では,荘内津久見を本拠とする海部水軍の薬師寺中務丞に荘内20貫分を預けた(薬師寺文書/大友史料15)。年未詳6月1日付山下長就・田北親員連署奉書は「臼杵庄政所」に宛てたもので,「祇園会前之為用心如例年⊏⊐兵船之儀被申付」と見える(薬師寺文書/大友史料12)。荘政所は大友氏が直轄地支配のため特定人物をこれに宛てたもの。また享禄5年(天文元年)3月2日付加嶋長盛等連署打渡状では,当荘先給臼杵次郎左衛門尉跡2所2反の地を薬師寺中務丞に打渡しているが,連署者の加嶋長盛ら4人は当荘政所に属する下級職員ではないかとも推定される(薬師寺文書/大友史料16)。当荘は豊後水道に面する臼杵湾を抱え,そこに位置する臼杵・下ノ江(したのえ)の港は「日本一鑑」にも見える東九州沿岸の主要港で,戦国期には外国貿易の上でも重きをなした所である。また当荘は大友氏の重要な荘であり,弘治2年小原鑑元以下13人の重臣が謀叛に走った際これを討伐した大友義鎮(宗麟)は,当荘の「城の如き島」丹生島(にうじま)に難を避けた(耶蘇会士日本通信豊後篇上/大友史料20)。永弘文書某覚書には「(弘治3年5月)廿一日癸酉大友殿御座ス入(ママ)ウスキ焼失候」(大友史料20),また同月25日付大友家加判衆連署奉書にも「殿中火事」と見えることから(佐田文書/大友史料20),当時丹生島に大友氏の居館が構築されていたことは確実である。ついで永禄年間(5年頃か)宗麟は本格的に丹生島城(臼杵城)を構築,ここに移遷した(史料綜覧等)。天正10年頃宗麟は津久見に遷居し,キリスト教会天徳寺などを建てキリスト教信仰を深め,のちにこの地で没した。天正14年12月当荘に島津軍が侵入,丹生島城を攻略したが,宗麟は死守撃退した。天正16年の参宮帳には「臼杵市・臼杵よこはま・臼杵唐人町・はまの町・よこ町・臼杵きおんのす・臼杵かいそい(かいそい町・かいそへ町)」などの地名が見えるが(県史料25),これらは丹生島城の城下町として永禄期以降形成されてきたものか。天正18年10月2日付臼杵庄一万田八郎所領坪付に,「臼杵庄 一万田八郎領」として田畠4町5反344歩が見える(一万田鹿蔵文書/大友史料28)。また同3日付薬師寺孫次郎知行坪付にも「臼杵庄 津久見薬師寺孫次郎領 一,田地合壱反大四歩」と見える(薬師寺文書/県史料12)。さらに天正10年10月1日付臼杵庄一万田八郎所領坪付は,他の同種の文書からして天正19年の誤りと思われ,当文書に見える「臼杵庄」が終見(一万田鹿蔵文書/大友史料28)。江戸期は現臼杵市域は臼杵藩領に,現津久見市域は臼杵荘領と佐伯藩領にほぼ2分された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7607821