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満家院(中世)


平安末期~戦国期に見える院名薩摩国のうち「みつえ」とも甲突川および神之川の上流域に位置する建久8年の薩摩国図田帳によれば,当院は島津荘寄郡であり,田数は130町地頭は惟宗忠久で院司(院郡司)は大蔵業平であるまた,建保6年9月の厚地山掛仏銘によれば,惟宗忠久は預所も兼帯していた(旧記雑録)初見は,承安2年12月8日の入道西念譲状に「□摩国満家院」とあるもので,入道西念は,大蔵義平に院内の一部「東限由須乃木乃中尾大路 南限土土呂木限満家迫 西限面松并結松行元頂乃藤山 北限千加尾峯頂」(郡山町西俣および郡山の北部)を譲っている大蔵義平とは加治木郷司加治木吉平(親平)のことと考えられる(加治木系図)また,建久図田帳に見える院司大蔵業平は加治木系図の親平子息資宗(平)に推定されるが(鹿児島市史),同系図では資宗は満家左近将監と称し,院内の東俣・小山田・比志島・河田・西俣を親平から得て,幕府より安堵され,その子息幸光は,承久元年7月24日に安堵下文を給わるが,承久の乱で京方につき没落したという前記建保6年の懸仏銘には,地頭兼預所の島津忠久とその妻小野氏のほか「当院司大蔵幸満」と紀氏,大蔵宗頼と宗形氏の息災延命を祈る旨が記されているが,この大蔵幸満は幸光のことであろう幸光の所領は没官され,隣国の在庁税所祐満の手中に帰するが,祐満の兄篤満の夫人は大蔵幸満の兄弟であり,その関係で承久の乱後,没収された幸満の所職を夫篤満の和田合戦勲功賞としてもらい,それが弟祐満に伝えられたのであろう(鹿児島市史)その後,この満家院郡司職および厚智山座職は税所氏惣領の所職として義祐―篤秀―篤胤と相伝されるまた,義祐の諸子の中,七郎祐秀は当院内中俣村を,童名弥陀増(四郎)は小山田村の田地の一部,女子某は油須木村を領知し,別の女子某は肥後山元荘預所伊勢庄司の許に嫁し,満家院内にも田畑を少々有していたと税所氏系図に記されている(同前)しかし,鎌倉末期には地頭の島津氏の勢力拡大が進み,度々,院内の所領をめぐって相論が起こっている正応元年6月7日に税所篤秀は和与状を提出して,島津氏に郡司得分米50石,7か所請料小袖3両,厚智寺巻誦用途3貫文,塚田・蒲原を去り渡す代わりに,院内の郡山・中俣以下6か村の領知をようやく確保する有様であった(比志島文書/旧記雑録)南北朝期に入ると,地頭の島津氏は税所氏の勢力を完全に圧倒して郡山(大蔵)頼平を郡山城に入れ,南朝方にくみした伊集院忠国の軍に備えさせている(国史)加治木氏系図(地誌備考)によれば,頼平は加治木恒平の子息良平(郡山弥三郎)の子孫の吉原氏の一族であろうと考えられ,良平が郡山を領した因縁から同地に入ったのであろう一方,鎌倉期,当院で活躍した在地領主としては税所氏の他に比志島氏があり,同氏の祖である重賢(法橋栄尊)の母は満家院院司の大蔵氏の出身であり(比志島系図),姉は税所篤満の妻となっていた(税所氏系図)また,父は源頼朝の従弟村上頼重という栄尊は寛元5年3月11日,母菩薩房から院内の比志島・河田・西俣・城前田・上原薗等5か所の名主職を譲られるこの譲状には「件五箇所名主職者 任相伝,菩薩房当知行也,其子細兵衛太郎義佐(税所義祐)之契状明白哉」と見え,院司税所氏との約状に基づいて栄尊に譲られている(比志島文書/旧記雑録)しかし,ここに至るまでは,栄尊の種々の努力が必要であったことは「比志島文書」からもうかがえる宝治元年8月13日には守護であり地頭である島津忠時が承認を得,同10月29日には5か所の名主職の知行を承認する関東御教書を得ている栄尊は建長5年7月10日には,嫡子比志島祐範にこの5か所の名主職を譲るとともに西俣名代官職を次男盛忠(義房)に,河田名代官職を三男盛佐(盛資,義尹)に,城前田等の代官職を四男栄秀(義永)に与えている建治3年正月27日の比志島太郎(祐範)宛の石築地役覆勘状によれば,満家院内比志島・西俣・河田・前田4か名分の役として5丈1尺4寸が課されている(同前)比志島も惣地頭島津氏と対立して度々その非法を鎮西探題に訴えている城前田については建長5年の栄尊所領配分状によれば,庶子乙次郎(義永・栄秀)が代官となっていたが,正和元年6月10日の僧栄秀申状および同2年7月17日,同2年11月20日の鎮西御教書によれば,島津氏の押領するところとなっている(同前)また,上原薗については,当初から一族の代官は任命されず,早くから税所氏の代官である紀姓の上原氏が居り,正和元年9月16日の守護代沙弥本性裁許状には「満家院一分名主」と見え,院内有力豪族となっているまた鎌倉末期の元亨2年5月3日の上原基員契約状によれば,税所氏から基員に郡山の地が安堵されている(同前)このように,比志島氏の所領経営は困難をきわめており,正和6年4月25日の沙弥了恵状によれば,比志島・西俣・河田の3名が正八幡宮造営役を配分されていて,この3名が当知行であったのだろう比志島氏の惣領職は忠範,義範と相伝されるが,鎌倉末期には,外部との対立とともに,庶子との対立も表面化する嘉元4年正月28日の守護代本性書下には,比志島氏の分担となっていた筥崎石築地役等について庶子が惣領の命に背いて対捍し,惣領が立替えていることが見えるし,正和2年11月21日の源氏女和与状によれば,比志島忠範と源氏女の間で河田名内の柿元田1町并薗一所をめぐって対立があったことが知られるさらに,同年12月の源久盛和与状では,比志島忠範と西俣久盛との間で公私大小公事,警固石築地役をめぐって相論が行われている(同前)しかし,このような内部対立をはらみながらも,惣領比志島氏は守護島津氏に接近することによって,一族の歩調を整え,南北朝期の動乱を切りぬけて行く惣地頭職は初代島津忠久から忠時に伝えられ守護兼帯の職であったが,忠時の庶子長久に伝えられ,一時,兼帯を離れるが,その死後再び守護忠宗が相続し,伊作宗久が一時これを請所とし,後に,忠宗の庶子和泉実忠が相続した(鹿児島市史)その間に,在地勢力を排除して南北朝期には税所氏を一掃し,比志島氏を被官化することに成功している比志島一族は足利尊氏に属した島津氏に味方し,転戦しているが,比志島義範は九州から東上する足利軍に加わり,兵庫で新田・楠軍と戦い戦死この戦いでは,弟小山田景範も活躍している貞久は建久4年9月2日,義範の戦死をたたえ,公方からの恩賞もあろうが,自分の志として院内の油須木4町を宛行っている(比志島文書/旧記雑録)油須木・厚木・東俣・小山田等は本来院郡司税所氏の所領であったが,この時期には,島津氏の支配下にあったようである正平5(観応元)年8月,南朝方の伊集院忠国は島津方の大蔵頼平の守る郡山城を攻めるが,その際に,比志島一族も島津方として参戦し,一族の小山田彦五郎やその若党が負傷している(同前)しかし,このような比志島一族等の援助にもかかわらず,郡山城は8月20日頃には落城し,頼平は城を去っているその後,この一帯は,伊集院氏の支配に入り,応永27年2月3日の伊集院頼久寄進状では,「満家院郡山名内」の2町2反が円通庵へ寄進されているまた,これより以前の応安7年11月22日の伊集院久氏譲状でも,「ミつゑのゐんのうちかまか原村」を子息と思われる犬太郎丸の母に一期分として譲与している(円通庵文書/旧記雑録)蒲ケ原は現在の鹿児島市小山田町にある郡山城を陥した伊集院氏は小山田一帯にも手を伸ばしたと考えられる応永21年正月2日には,伊集院頼久は小山田範清を小山田城に攻めるが,攻略には失敗している(国史)これらから推定すると,伊集院氏の支配地は院の中北部,現郡山町の町域一帯とみられる従って,比志島氏の一族の西俣氏の所領西俣名もその治下に入り,西俣氏も伊集院氏に仕え,後には蒲生氏に仕え,家老を務めたという宝徳2年2月,伊集院久は島津忠国によって肥後に追われ,伊集院氏の所領はほとんど島津氏の直轄領となる島津立久は文明初年,家老の村田経安を郡山に入れ地頭とするが(三国名勝図会),経安は明応4年7月,島津忠昌と対立して滅びる天文14年8月,島津貴久は入来院重朝を郡山城に攻めて略取する重朝は貴久の義兄であったことから郡山を与えられていたが,驕慢による反心があらわになったといわれている伊作家島津氏の忠良・貴久父子が薩摩・大隅・日向三州を統一する過程で,土着の豪族を本貫地から転封する政策を取り,戦国期まで,当院内の在地領主として生きぬいてきた比志島氏も川田氏も天文から天正期に他郷の地頭として移され,満家院は名実ともに島津氏の直轄地とされる当院の院域は永正11年12月15日の伊集院諏訪御祭礼年4回数番帳に見える満家院内の名田名が参考となるそれによれば,院内の名として中俣名・有屋田名・西俣名・小山田名・比志島名・河田名・東俣名・郡山があげられており,院域は,現在の郡山町の全域および鹿児島市の小山田町・皆与志町を含む一帯に比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7618444