経営ヒント格言 4.将来を予測する次の一手 1239 「十人中五人が賛成するようなことは手遅れ、七〜八人が賛成するようなら止めた方がいい。二〜三人がい 【名言・格言者】大原孫三郎(株式会社クラレ創業者)【解説】 大原孫三郎(おおはらまごさぶろう)氏は、1880年、岡山県に生まれました。1901年に東京専門学校(現早稲田大学)を中退し、父が社長を務める倉敷紡績株式会社(以下「倉敷紡績」)に入社しました。1906年、父の後を継いで社長に就任し、以降は1939年までの長きにわたって同社の経営に携わりました。また、1926年には倉敷絹織株式会社(現クラレ株式会社。以下「倉敷絹織」)を設立し、倉敷電灯株式会社(現中国電力株式会社の源流)・株式会社中國銀行(現株式会社中国銀行)などの社長や取締役に就任するなど、紡績のみならず、さまざまな産業の振興に尽力しました(1943年逝去)。 冒頭の言葉は、「ほかの人が目をつけないようなことに着目し、なおかつ、いち早く実行することが重要である」ということを表しています。 倉敷紡績の社長に就任した大原氏は、重役や株主の反対を押し切って積極的な事業拡大路線をとり、他企業を買収することにより企業規模を大きく拡大しました。当時の日本では、大型合併による紡績業界の再編が進んでいました。大原氏は、一地方企業である倉敷紡績がこの流れにのみ込まれてしまうことを危惧し、逆に積極的な攻勢に出たのです。やがて第一次世界大戦の勃発を機として日本が好況を迎えると、倉敷紡績は先行投資が奏功して業績を大きく伸ばし、大原氏の先見性が証明されることとなりました。 次に大原氏が着目したのは人絹(レーヨン)事業でした。当時、レーヨン事業には帝国人造絹絲株式会社(現帝人株式会社)が進出していたものの、高度な技術を要するため、そのほかの企業にとって事業化は非常に困難であるとされていました。 大原氏は、倉敷紡績の役員会にレーヨン事業への進出を諮りましたが、「特許料が非常に高額である」「技術に関する情報が不十分」といった理由からリスクが高すぎると判断され、ほとんどの役員から反対を受けました。しかし、大原氏は「原料を海外に依存しないレーヨン事業への進出は、事業の自立および国家の自立にとって不可欠である」と考えました。そしてその信念に基づき、反対を退けてレーヨン事業への進出を決意したのです。 その後、レーヨン技術の研究は困難を極め、撤退の危機に見舞われたこともありました。しかし、大原氏は決して諦めず、ついにはレーヨンの事業化に成功し、1926年、倉敷絹織が設立されました。 大原氏の有名な口癖として、次の言葉があります。「わしの眼は十年先が見える」 経営者にとって、先を見越す力は非常に重要です。そして、それを実現するためには、「ひとたびやると決めたことは万難を排してやり抜く」という強い実行力が必要です。大原氏の言葉は、先を見越し、そして断じて行うという、経営者にとって欠くことのできない重要な二つの資質を表しているといえるでしょう。【参考文献】「日本経済の礎を創った男たちの言葉 21世紀に活かす企業の理念・戦略・戦術」(森友幸照、すばる舎、1999年11月)「大原孫三郎伝」(大原孫三郎伝刊行会(編)、大原孫三郎伝刊行会、1983年12月) (c)日経BP社 2010 日経BP社「経営のヒントとなる言葉50」JLogosID : 8516427