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宇都宮藩[関東地方]
角川日本地名大辞典

(近世)江戸期の藩名。河内郡宇都宮に居所を構え,同地周辺を領有した譜代中藩。藤原宗円以来の由緒を誇る宇都宮氏は,戦国期下野における最大の戦国大名で,豊臣秀吉の小田原の陣後も残ることのできた数少ない関東の名族であったが,慶長2年国綱の時に秀吉によって突然改易され,その500年を数える家柄が滅んだ。そして,翌3年家臣間に紛争を起こした陸奥国会津91万石余の蒲生秀行が宇都宮城に18万石として移ってきた。蒲生秀行は,関ケ原の戦に際して会津の上杉景勝の進出を押さえる役割を果たし,その功により慶長6年上杉景勝転封後の会津へ60万石に加増されて復帰した。同年これに代わって,徳川家康の外孫である奥平家昌が,10万石という下野最大の大名として新たに取り立てられ,宇都宮に就封した。下野における有力な譜代大名の城地が成立した初めで,以後下野最大の藩として下野中央部を占める当藩は歴代譜代大名が就封していく。奥平家昌が入部するにあたり,徳川家康は「宇都宮は関東喉首の要地也」といったと伝えられるが,当藩は奥州の押えとして江戸を防衛する最重要地であり,また東照宮の建立後は江戸幕府の「聖地」日光東照宮警衛の重役を担わされていたからである。奥平氏は家昌のあとを忠昌が継いだが,元和5年下総国古河へ移封となり,代わりに小山(おやま)から家康の近習出頭人本多正純が15万5,000石で入封する。正純は積極的な領国経営を行い,翌元和6年には領内総検地を実施し,また宇都宮城の大改修とそれに伴う宇都宮城下の町割を行った。ところが,同8年突如として宇都宮の城地没収と出羽国由利への配流の処分が行われる。世にいう「宇都宮釣天井事件」である。正純のあとには古河の奥平忠昌が11万石で再び入封した。寛文4年における藩領は,河内郡のうち104か村・6万3,993石余,塩谷郡のうち65か村・2万3,353石余,芳賀郡のうち34か村・1万5,094石余,都賀郡のうち20か村・7,558石余の計11万石であった(寛文朱印留)。この所領はほぼ連続して集中しており,近世後期の譜代藩領に見られる錯綜分散形態とは異なった姿を見せていた。奥平忠昌は寛文8年に没するが,その際に家臣が殉死したため,幕府は忠昌の子昌能に対し2万石減封のうえ出羽国山形に転封を命じた。なお,忠昌の没後直後に家臣間の刃傷沙汰が起こり,のち寛文12年にこの復讎事件が発生して俗に「浄瑠璃坂の仇討」として巷間に流布した。奥平氏の山形転封ののちは,入れ代わりに山形から家門の松平(奥平)忠弘が15万石で入封するが,天和元年には陸奥国白河に移り,同年白河から本多忠平が11万石で入部した。しかし,本多氏も貞享2年に大和国郡山へ移封され,同年山形から奥平氏が9万石で三たび入封した。このいわば第3次奥平氏時代の元禄年間の藩領は,河内郡5万6,110石余・塩谷郡2万3,354石余・芳賀郡1万536石余の計9万石で,第2次奥平氏時代の寛文4年の所領と比べると都賀郡の所領が消滅している。奥平氏は昌章(昌能の養子)・昌成と在封したが,元禄10年丹後国宮津へ移封され,交替で宮津から阿部正邦が10万石で入封した。宝永7年正邦は備後国福山に移され,あとに越後国高田から戸田忠真が6万7,000石余で入った。この時の藩領は河内・塩谷・芳賀3郡内138か村で構成されていたが,忠真は正徳4年老中に就任し,享保3年河内郡内において1万石を加増され,7万7,000石余となった。戸田氏は忠真のあと,忠余(奏者番)・忠盈と在封し,寛延2年忠盈の時に肥前島原に移封となり,かわって島原から松平(深溝)忠祗が6万5,900石余で入封した。松平氏の所領は,河内・塩谷の2郡内のほか,出羽国村山・陸奥国信夫・常陸国多賀の3郡内にも散在した。松平氏は,忠祗の養子忠恕の時,安永3年旧領島原に復帰し,交替で島原から戸田氏が再び入封する。こうして譜代の有力藩である当藩では行政的転封を中心としてめまぐるしく領主の交替が行われたが,この第2次戸田氏にいたってようやく藩主の定着をみるようになり,戸田氏は忠寛(忠盈の弟,京都所司代)・忠翰・忠延・忠温(老中)・忠明・忠恕・忠友と在封して明治維新にいたる。この第2次戸田氏時代の藩領は河内・都賀・芳賀・塩谷の4郡内221か村・7万7,850石で,慶応元年天狗党の乱に藩が関係したと疑われて2万7,850石を減封されたこともあったが,ほどなくもとの7万7,850石に復した。同2年忠友は,山陵奉行を勤めていた分家戸田忠至に当藩領内の本田7,000石と新田3,000石の1万石を分与して高徳藩を成立させ,当藩は7万850石となった。「藩制一覧」による幕末〜明治初年の藩の概況は,表高(公称高)7万850石,草高(実高)9万1,298石余(込高とも),5か年平均の年貢収入は,正租が米1万5,808石余・永6,106貫余,雑税が米2,097石余・永435貫余・金193両余・銀4貫余・鐚1,369貫余・大豆639石余・油荏241石余・稗338石余など。所領は下野4郡のうち38か町172か村,戸数1万557・人口5万9,908(うち士族562戸・2,913人,卒族329戸・1,181人),神社997社,堂328宇,庵87軒などであった。「旧高旧領」によれば,河内郡5万7,022石余・塩谷郡2万4,518石余・都賀郡6,265石余・芳賀郡2,821石余の計9万628石余とある(県史通史編4)。明治4年廃藩置県により宇都宮県となる。