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(近世〜近代)江戸期〜昭和40年の町名。江戸期は広島城下中島組に属す。新町とも称す。広島城の南,本川(太田川)東岸。元柳町の南に続く土手筋の町で,東は木挽町,南は武家屋敷地の水主(かこ)町。町名の由来は,後年の開発地であることによる(知新集)。木挽町および新町の地は広島築城当時木挽小屋があり,畑地であったことから中島地方と呼ばれた。浅野氏入国時の元和5年の城下絵図には本川沿いに新町筋4町30間と記し,寛永2年の家数改では中島地方として本家65・借屋30。寛永年間の城下絵図では「新町通」。承応3年の切絵図では木挽町と合わせ家数132(うち木挽町分17軒),間数503間。天和3年の切絵図で初めて木挽町と分離,小間数439間余,家数118軒うち作人47・舟大工12・船持9・木挽4・茶屋7・米屋5などが見え,本川水運の活発さをうかがわせる。「知新集」によれば,真宗善福寺は福島時代,4世慶順の時広瀬村空鞘より移転。寺地の南の慶順堀(けいせい堀)は移転の時敷地の地あげの為土砂を掘取った跡という。町内にはほかに同宗西応寺がある。炭蔵小路には貞享〜享保年間頃藩の炭蔵が置かれ,のち米蔵を設置。また石橋5・町門1,町間数7町25間余,家数122・竈数285(本竈45・借竈240)・人数1,065,うち大工13・船大工9,針医・木挽・柿葺・取葺・茅葺・桶屋・藍絞染師各1。代々左官棟梁役として藩の扶持を受けた左官伝之助がいた。文化元年本川対岸の西地方町との間に本川渡し(渡船)が開始。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治6年本川渡しの地に新大橋が架設。同15年善福寺隣の旧藩米蔵跡に広島区役所設置。ついで同22年には旧区役所を市庁舎として以後昭和初期国泰寺に市庁舎を移転するまで市政の中心であった。第2次大戦後当町の北部は平和記念公園・平和大通の一部となり,昭和20年に流失した新大橋の跡には西平和大橋が架橋。大正6年の戸数379・人口1,290,昭和26年の世帯数39・人口144。同40年中島町となる。
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