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前浜[関東地方]
角川日本地名大辞典

鎌倉期〜戦国期に見える地名。現在の由比ガ浜もしくは坂ノ下海岸をいう。「吾妻鏡」建久5年11月21日条に「於御霊前浜,有千番小笠懸」とあるのは,坂ノ下御霊神社の前浜を指すが,同書建保3年8月18日条にいう「午尅大風,鶴岡八幡宮鳥居前浜顛倒」とか,元弘3年12月日の天野経顕軍忠状写(天野文書/県史資2‐3139)の「前浜鳥居脇」の鳥居は,若宮大路浜の大鳥居と考えられるから,前浜は広く由比ガ浜を指すことになろう。仁治2年11月25日の関東下知状写(相良家文書/同前1‐353)の「浜地」,建武3年4月5日の山内首藤時通軍忠状(山内首藤文書/同前3上‐3270)の「浜面」なども前浜をさすのであろう。「吾妻鏡」によると,寿永元年6月20日,鶴岡辺りに光物があり前浜辺りをさして飛行したという。これが前浜の初見とみられる。ついで建保元年5月2日の和田義盛の乱では義盛が前浜辺りまで敗退したこと,貞応元年4月26日には前浜や腰越浦などに死鴨が打寄せられて不吉であるとして,前浜で七座百怪祭を催したこと,2年後の元仁元年5月13日にも三崎・六浦・前浜で死魚が大量に浮上し,鎌倉の人々が魚を煮て油を採ったこと,安貞元年3月9日には隠岐院三宮と称する奸謀の族を「前浜辺の民屋」で生け捕ったことなどがわかる。ほかには,止雨を祈る七瀬祓,風神をまつって豊穣を祈る風伯祭などの神事,および毎年正月の儀式である的場始も行われている。「梅松論」(群書20)は元弘3年5月,新田義貞の鎌倉攻めを記して「義貞の勢は稲村崎を経て前浜の在家を焼払ふ煙みえければ,鎌倉中のさはぎ手足を置所なく,あはてふためきける有様たとへていはんかたぞなき」と伝える。この前浜には宗旨未詳の一向堂があった。東京大学所蔵元弘3年6月14日の市村王石丸代後藤信明の軍忠状(市川文書)によれば元弘3年5月18日,前浜一向堂の前で散々に攻め戦ったことを述べている。ついで,応永24年正月日および同年2月の烟田幹胤軍忠状写(烟田文書/県史資3上‐5506・5512)によれば,応永23年10月の上杉禅秀の乱で,ここが壮烈な合戦場(前浜の合戦)となったことを,「鎌倉大草紙」(群書20)は駿河に逃げた足利持氏が前浜から佐介に移ったことを載録する。これよりさき「神明鏡」(続群29下)康応元年卯月13日条に「鎌倉前浜血ニ成ス」とあるように,前浜は合戦のたびに壮絶な戦場と化していたことが知られる。下って「快元僧都記」天文2年12月18日条に「檜皮等雖為月迫,前浜へ被著畢」とあるのをはじめとして,鶴岡八幡宮の造営に際して,材木が着いた記事が散見する(神道大系)。