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江戸期〜明治22年の村名。諸県郡のうち。はじめ鹿児島藩都城島津氏領,慶長19年からは鹿児島藩直轄領。勝岡郷に属す。村高は,寛文4年「日向国諸県郡村高辻之帳」では椛山村と見え1,781石余,元禄11年「日向国覚書」でも同高,「天保郷帳」では椛山村と見え同高,「旧高旧領」では1,669石余。当地の郷士は慶長19年島原の乱には,途中まで出兵したともいう。明和7年〜寛政5年藩命により庄内移しとして加世田から郷士9家が新馬場に移住し,勝岡郷士に編入された。三股往還によって北東部は石寺村,南西部は寺柱村に通じる。山王原の南西畔から寺柱村までは松並木になっていた。西は郡元村と接す。当村は排水が良いだけに干害に遭いやすかった。寺社は,禅宗万福寺,早馬神社があった。万福寺は都城仁巌寺の末寺であったが,文政年間廃寺となった。早馬神社は新馬場・上米満・梶山の氏神であった。ほかに明治3年当村が三股郷に移管されると,地頭三島通庸が都城郷安永村にあった山神大明神(元亀2年創建)を遷座し改号した稲荷神社がある(県史蹟調査第8輯)。「三国名勝図会」には,当村の神社として諏訪大明神社(例祭7月29日)と若一王子権現社(祭礼9月9日)の2社が記される。明治3年三股郷に属す。同年三股郷の麓建設のために参政伊地知正治と大隊長桐野利秋が視察に来村し,山王原を予定地に決定した。三郷分割では下三俣郷に属して常備隊1小隊が設置された。また勝岡・長田・寺柱・安久・上長飯【かみながえ】5か村から旧藩士70戸が山王原に移住し,地域内の農民が土木工事に徴発された。明治4年鹿児島県,都城県を経て,同6年宮崎県,同9年鹿児島県,同16年からは宮崎県に所属。同年北諸県郡に属す。明治5年三股小学校を開設。同10年の西南戦争には当地の郷士も参加し,戦死者も出た。同11年浄土真宗広済寺が建立された。「日向地誌」の著者平部嶠南が諸県郡を調査したのは明治13年で,同書によれば,当村の規模は東西約1里半・南北約1里,東は那珂郡酒谷村,西は郡元村,南は宮村,北は蓼池村,東北は長田村と接し,宮崎県庁からの里程は西南へ約11里9町,地勢は「西一半ハ田圃平曠,東一半ハ山巒綿亘,栂ノ尾岳ヲ負フ,運輸便利,薪芻モ乏シカラス」と見え,地味は「其田大約黒ソミ土,川涯ノ田ハ砂土モ亦少シクコレアリ,其質中ノ下,畑ハ大約黒土,真土モ少シク雑ル,其質中ノ中,水利ハ七分便ナラス,五六月ノ際旬余雨フラサレハ必ス旱災ニ罹ル,川涯ノ田ハ水利便ナリト雖モ水害モ亦多シ」とある。また,税地は田134町余・畑479町余・宅地59町余・切換畑11町余・山林27町余・芝地67町余・藪23町余の計801町余,無税地は計2町余,官有地は山林34町余・芝地2反余などの計34町余,貢租は地租金2,396円余・雑税金480円余の計2,876円余,戸数450(うち社1)・人数2,257(男1,153・女1,104),牛211・馬204,村内の字地別戸数は三王原69・新馬場145・沖水11・樺山192・細目8。学校は地内三王原に人民共立小学校があり,生徒数は男146・女84。戸長役場は三王原にあり,5等郵便局が三王原にあった。神社は三王原に稲荷神社がある。民業は大半は農業に従事し,農間には工業に30戸,商業に6戸,製紙業に5戸,瓦製造業に4戸,染屋に2戸が従事した。物産は,猪鹿8〜9頭・犢6〜7頭・鳩100羽・鶏200羽・糶250石・茶1,000斤・楮皮400貫匁・禾50石・蕃藷100俵・大豆6〜7石・薪8,000束・紙1,000束・箪笥60荷・瓦1万枚・木履3,000双・柿子2万顆・鶏卵2,000顆。さらに,川は沖水川・細目川・高畑川が流れ,用水は稗田溝を利用し,湖沼に上小石池・上ノ園池・前ノ山池・大谷池・五月田池があり,道路は三股往還が通り,古跡として万福寺跡が記される。明治17年の戸数451(都城市史)。同21年の戸数429・人口2,401,反別は田137町余・畑481町余・宅地59町余・池沼1町余・山林57町余・原野25町余・雑種地6反余の合計763町余,諸税および町村費の納入額は国税2,379円余・地方税941円余・町村費108円余・協議費109円余,村有財産は原野44町余・山林26町余などがあった(郡行政/県古公文書)。明治22年三股村の大字となる。
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