辞書一覧
検索結果一覧
9156件Hitしました
991から10件/9156件中
(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。東中筋通正面下ルの町。南北に通る東中筋通をはさむ両側町。江戸期は西本願寺寺内町のうち。寛永14年の洛中絵図では「三丁目」,寛文12年洛中洛外大図では「天使突抜三丁目」,天明6年洛中洛外大図では「東中筋三丁目」と記すが,「京雀」にはすでに現町名が見える。紅葉町の町名は,付近に文学・高雄などの町名があることによるという(坊目誌)。「表処置録」(村上文治家文書)によれば,米屋仲ケ間の平野屋半兵衛,請酒屋仲ケ間の平野屋半兵衛(同一人物か)が当町に居住。「宝暦町鑑」には当町に願成寺・法照寺・光明寺があったことを記し,「府地誌」には同様に祐信寺・光明寺・安楽寺の存在を示す。いずれも浄土真宗本願寺派に属す。祐信寺は天保12年僧大真開基,明治26年10月に鹿児島県出水郡へ移転。光明寺は寛文4年11月僧休味開基,同35年4月廃寺となる。安楽寺は寛永12年正月に僧徳興が開基。「表処置録」は,院家として願成寺,内陣として安楽寺,一代国絹袈裟として法照寺,三十日番として玉照寺・光明寺をそれぞれあげる。江戸期は西本願寺寺内町の学林組,明治2年の町組改正より下京(しもぎよう)19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成。明治12年下京区紅葉町,同22年京都市下京区紅葉町となり現在に至る。同42年真宗大谷派の円光寺が御幸町松原の南の地から移転。また当町の玉照寺は大正2年宮崎県へ移転したという。世帯数・人口は,明治44年61世帯・205人,大正14年47世帯・193人,昭和40年32世帯・110人。人口増減率(昭和40〜50年)10.9%減。
次の10件