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沖縄本島中部,浦添市仲間小字城原に所在する城。方言ではウラシイグスクという。「海東諸国紀」の琉球国之図には浦傍城とある。牧港川左岸の琉球石灰岩丘陵に立地する。この丘陵は,北西から南東の方向に約2kmあり,北側は断層で急崖をなしているが,南側は緩やかなケスタ状の斜面である。城は地形を巧みに利用し,丘陵の先端に石垣を巡らした要害となっている。城の東側はコーグスク,西側はミーグスクと呼ばれ,新旧2つのグスクからなるといわれる。城は,北西から南東に380m,南北60〜80mの楕円形状をなし,規模はかなり大きい。中央部が採石によって原形を失っているが,全体の形から連郭式の城郭であったと考えられている。「由来記」浦添間切仲間村の項に,浦添城内にある大城嶽・小城嶽(クガニムイ)・渡嘉敷嶽・浦添城内殿が見える。大城嶽はナンジャムイ,渡嘉敷嶽はデーグガマと呼ばれる。城跡の周りにはテーラガー・アザナガー・カカンガー・カーラウカー・ユムチガーなどの拝泉が点在する。城の北西約1.5kmには英祖王(1260〜99在位)の父祖歴代の居城伊祖城がある。東側には為朝岩と呼ばれるワカレジ(瀬)がある。浦添の名については,うら(浦)をおそう(襲う)で浦々を支配するところの意とする説(伊波普猷全集1),「おそい」は「うすい」で寝ている子に衣を被せるように村々を守護する意とする説などがある(神と村)。沖縄の最初の王である舜天王(1187〜1237在位)は浦添按司であったとされ,舜天王統に続く英祖王統・察度王統も浦添の出身であったとされることから(中山世鑑),浦添城は三王統のうちいずれかによって築かれたと考えられる。「南島風土記」では,英祖王は伊祖城を居城としているから,浦添城は察度王以後のものかという。「おもろさうし」に見える「うらおそい」は,現在の浦添市・宜野湾(ぎのわん)市と那覇(なは)市・西原町の一部を含む広大な地域と考えられ,浦添城を中心とする当時の支配領域をうかがわせる。その後,浦添城は尚巴志によって亡ぼされた。弘治年間(1488〜1505)尚真王の長子浦添王子朝満が王の不興をかい浦添城に移されたが,当時城郭が荒廃していたので,浦添間切仲西地頭で朝満の岳父であった呉姓2世宗義の邸宅を移築し,そこに住んだという(呉姓大宗家譜/那覇市史資料1‐8)。慶長14年島津の侵入の際,浦添城と城下の竜福寺は戦火にあって焼失した(喜安日記)。万暦39年(1611)島津に上国していた尚寧王が帰国,同45年尚寧王は浦添城を修復して隠居した(宣姓系譜)。その後,浦添城に関する記録はないが,番所が置かれていたと伝える。昭和57年から三次にわたって市教育委員会による発掘調査が行われ,城郭の一部が解明された。城跡の中央部西側で,地表下60〜70cmの深さから全長16mの石垣が発掘されたほか,城の最下層の野面積みの石垣,城門跡(第2の門)基壇,基壇に取り付けられた階段,建物の周辺に巡らされた石塁,掘立柱建物跡,コーラル敷きの広場,石列,柱穴群,グスク普請跡などが確認された。遺物は,グスク時代から現代に至るものまであり,グスク系土器・中国製陶磁器類,陶器の甕や壺類,火鉢・擢鉢・礎石・鉄釘・煽止錺金具・鉄斧・刀子類・鏃・簪類・玉類・小札・鞐・鉄鏃・牛の骨・炭化米・炭化麦・古銭などが出土している。遺物には,特に灰色瓦が多く見られる。古瓦には「癸酉年高麗瓦匠造」「大天」などの在銘瓦が多量に含まれている。古瓦の年号をめぐっては諸説があり,紹興23年(1153)とするのが最も古く見える説で(琉球建築),次いで至元10年(1273)とする説がある(昭和36年文化財要覧)。「琉球古瓦調査抄」「南海古陶瓷」では,古瓦と中国製陶磁との関係や,高麗史の記録などから洪武26年(1393)とするが,至元10年の可能性もほのめかしている。最近では,「李朝実録」により,洪武27年南山王承察度が朝鮮に亡命したこと(太祖2年条),高麗末期に高麗からの亡命者がいた可能性から,洪武26年説が支持されているが,いずれも推定の域を出ていない。浦添城から首里へ遷都した際,石垣の一部を取り壊して運んだといわれる。沖縄戦の激戦地になった上,戦後の建築ブームで採石され,さらに公園化によっても遺構が破壊された。しかし,市教育委員会の発掘調査では,遺構は比較的よく残っていることが確認された。現在,県営浦添大公園の一画として利用され,市民の憩いの場となっている。
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