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天正15年の豊臣秀吉の九州仕置により当郡も統一政権下に入り,翌16年伊東祐兵が当郡を中心に日向国内14か所1,736町を宛行われて当郡飫肥【おび】に入封した。ほかに,当郡内には児湯【こゆ】郡財部【たからべ】(のち高鍋)に入封した秋月氏,臼杵【うすき】郡県【あがた】(のち延岡)に入封した高橋氏の所領もあった。これらへの所領の宛行の基礎となったものの1つと思われる天正19年の「日向国五郡分帳」によると,当時の当郡の反別は2,458町,内訳は佐土原(田島上下)80町・石崎12町・那賀(但本村)80町・袋広瀬12町・塩地御手洗12町・新名爪60町・広原120町・山崎30町・江田30町・新別府30町・下之別府15町・田吉30町・恒久(上・下)80町・吉村15町・本郷北方100町・本郷南方100町・郡司分42町・隈野80町・加江田(上・下)80町・飫肥東方80町・飫肥西方350町・櫛間450町・南郷300町となっている。慶長5年の関ケ原の戦では,日向諸藩がすべて西軍に属したなかで飫肥の伊東氏は徳川方につき,戦後も本領を安堵された。また,高鍋の秋月氏,延岡の高橋氏もそれぞれ旧領を安堵され,慶長8年には鹿児島藩島津氏の分知家として島津以久が那珂・児湯2郡内に3万石を与えられ,当郡佐土原を居所として佐土原藩を立藩した。ここに,江戸期の当郡は飫肥藩領・佐土原藩領・延岡藩領・高鍋藩領の4藩領に分けられて出発することとなった。慶長18年延岡藩主高橋元種は除封され,翌19年有馬直純が入封したが,藩領に大きな変動はない。その後,飫肥藩では,寛永13年3代藩主祐久の時に弟祐豊に当郡南方村・松永村の2村で3,000石を分知し,また明暦3年4代藩主祐次の時に弟祐春に当郡東弁分村のうちと北方村のうちに3,000石を分知した。寛文4年の朱印状によれば,当郡は飫肥藩領4万2,573石余,高鍋藩領1万3,638石余,佐土原藩領1万2,211石余,延岡藩領2,804石余に分かれ,その所属村は飫肥藩領39か村(恒久・田吉・郡司分・隈野・加江田・鏡州・酒谷・吉野方・楠原・板敷・星倉・戸高・平野・西弁分・隈谷・北河内・郷原・大藤・殿所・益安・平山・風田・宮浦・富土浦・伊比井・塚田・大窪・萩之嶺・毛吉田・上方・下方・橋口・谷口・中・津屋野・潟上・脇本・熱波【にえなみ】の各村と東弁分村内),高鍋藩領18か村(西方・高松・奴久見・一氏・南方・大平・奈留・北方・秋山・大矢取・本庄・崎田・市木・六郎坊・海北・都井・御崎・大納),佐土原藩領10か村(上田島・下田島・袋広瀬・石崎・塩路御手洗・山崎・上那珂・下那珂・広原・新名爪),延岡藩領4か村(吉・下別府・江田・新別府)である。これに,飫肥藩の分知家である旗本伊東祐豊知行3,000石(南方・松永の2か村),同じく旗本伊東祐春知行3,000石(北方村と東弁分村のうち)を加えたものが,当時の那珂郡域であった。なお,飫肥藩は当郡のほかに宮崎郡内4か村・高8,512石余があり,領知高は5万1,086石余,佐土原藩は当郡のほかに児湯郡内11か村・高1万7,859石余をもち,領知高は3万石であった。その後,元禄2年飫肥藩分知家の1つである旗本伊東祐豊知行3,000石は上知され,南方村と松永村の2か村は幕府領となった。また,同3年佐土原藩では6代惟久が藩主となった時に義兄久寿(5代藩主)に香代としての功労として3,000石を分与し,当郡塩路村(塩路御手洗村)・山崎村・芳士村(新名爪村のうち)・島之内村(広原村のうち)の4か村を知行することになった。さらに,同4年延岡藩主有馬氏(5万3,000石)は越後国糸魚川に転封され,翌5年代わって三浦明敬が2万3,000石で入封したが,これを機に日向国内には多くの幕府領が創出され,当郡内でもそれまで延岡藩領だった江田・吉・新別府・下別府の4か村が幕府領となった。これにより当郡内の幕府領は松永・南方の2か村に加えて合計6か村となった。これにより当郡内の所領配置は,飫肥藩と佐土原藩の2藩領と幕府領,飫肥藩分知家の旗本伊東氏(祐春)知行,佐土原藩分知家の旗本島津氏知行となり,以後明治維新までこの体制が続いた。飫肥城は広渡川下流に面する丘陵上にあり,南の大手門を出た中腹にほぼ東西に武家屋敷地が展開し,大手門に近い大手・十文字地区には上級・中級藩士の屋敷があり,現在もその面影を残している。丘陵を下りたところが町人町で,本町・今町があった。当郡内の所領は飫肥藩の城付地で,飫肥・酒谷・郷原・北河内・南郷にそれぞれ地頭を置いて村々を支配し,また油津・大堂津・目井津・外浦にも地頭を配して港を管理させた。佐土原城下の町人町は大小路・下陀羅小路・十文字・上中小路・下中小路・納屋町・五日町・八日町・新町の9町からなり,享保10年には町中380軒とある。同藩の諸制度は宗藩の鹿児島藩のものを準用しており,城下のほかに外城を設け,都於郡【とのこおり】・三納・三財・新田【にゆうた】・富田の5か所に置いてそれぞれに地頭を配し,また外城の麓に藩士を居住させた。高鍋藩では,飛地領としての当郡内の所領を福島と総称し,福島を山西・山東に2大別してそれぞれに代官を配置し,また村々を数か村ずつまとめて郷とし,各郷に庄屋を置いて村々を統轄させた。山西は西方郷(西方・高松・奴久見・一氏の4か村)・北方郷(北方・秋山・大矢取の3か村)・南方郷(南方・奈留・大平の3か村)の3郷に分かれ,ほかに町方として福島町(上町・中町・今町・塩町),津口として金谷・崎田・湊浦の3港があり,山東は本城仮屋郷(崎田村1村と本城村の一部)・本城坂元郷(本城村)・都井郷(都井・御崎・大納の3か村)・市木川南郷(市木村)・市木川北郷(海北・六郎坊の2か村と市木村の一部)の5郷に分かれていた。幕府領6か村は,豊後国日田代官所の管轄下に置かれ,臼杵郡富高の出張陣屋の支配を受けた。「天保郷帳」によれば,当郡は78か村・高9万835石余で,村名は上田島村・下田島村・上那珂村・下那珂村・袋広瀬村・石崎村・広島村・島之内村(古くは広原村)・新名爪村・芳士村(古くは新名爪村)・塩路村(古くは塩路御手洗村)・山崎村・江田村・新別府村・吉村・下別府村・福島村・恒久村・田吉村・北方村・郡司分村・南方村・隈野村・加江田村・鏡洲村・伊比井村・富土村・宮浦村・郷之原村・北河内村・板敷村・大藤村・松永村・風田村・上東村(東弁分村枝郷)・殿所村・東弁分村・益安村・平山村・星倉村・楠原村・吉野方村・酒谷村・戸高村・西弁分村・平野村・隈谷村・下方村・上方村・毛吉田村・萩之嶺村・塚田村・大窪村・津屋野村・橋之口村・中村・谷之口村・脇本村・熱波村・潟上村・六郎坊村・海北村・市木村・大納村・御崎村・都井村・崎田村・本庄村・秋山村・北方村・西方村・高松村・奴久見村・南方村・奈留村・大平村・大矢取村・一氏村が記載される。「旧高旧領」では80か村・高10万7,494石余とあり,「天保郷帳」と比べると,上東村が上東弁分村,東弁分村が下東弁分村と改称され,南方村が上南方村・下南方村,北方村(旗本伊東氏知行)が東北方村・西北方村にそれぞれ分割され,袋広瀬村と石崎村の名が見えず新たに瀬頭村の名が付け加えられている。慶応3年5月には那珂・宮崎両郡内の幕府領8,900石余が飫肥藩預地となった。同4年(明治元年)閏4月25日幕府領であった江田・新別府・吉・下別府・南方・松永の6か村は富高県に属し,同年8月27日日田県に属す。明治3年頃には旗本伊東氏知行の上東村(上東弁分村)・北方村,旗本島津氏知行の塩路村・島之内村・芳士村・山崎村も日田県に属した。しかし,同4年2月,豊後国内の延岡藩領と日向国内の日田県管下とが交換となり,これらの12か村は延岡藩領に編入された。同年7月14日の廃藩置県により,当郡域は飫肥県・佐土原県・高鍋県・延岡県に分かれた。同年11月14日府県の統合が行われ,日向国内は大淀川以北の美々津県,以南の都城県の2県に統合整理されたが,これにより当郡は両県に二分された。すなわち,美々津県に属したのは新名爪・広原・島ノ内・芳士・塩路・山崎・下那珂・東上那珂・西上那珂・上田島・下田島・江田・新別府・下別府・吉の15か村,都城県に属したのは残りの62か村である。そして,明治6年1月15日美々津県と大隅国を除く都城県が合併して宮崎県が発足し,同県に属し,同9年鹿児島県への編入を経て,同16年からは宮崎県に所属する。明治6年の反別は1万869町余(日向国史下)。同10年前後に調査して同17年に完成した「日向地誌」によれば,当郡の幅員は南北20余里,東西は広い所は7〜8里で狭い所は1里に満たず,東は日向灘,西は宮崎郡,西南は諸県郡,北は児湯郡に接し,地勢は「東南海ニ循ヒ北田島ヨリ南櫛間ニ至ル,緯短クシテ経長シ,折生迫村以南ハ山岳綿亘シ道路険悪,山間平夷ノ地ニ因テ市廛ヲ建テ村落ヲナス,沿海ノ地モ亦多クハ峭岸ニシテ平沙処々ニ交錯ス,折生迫村以北ハ悉皆平土,沿海ノ地ハ平沙十九里ニ連ナル」とあり,風俗は「全郡ノ内錯雑斉シカラス,古樸時勢ニ応セス異物ヲ見テ移ラサルアリ,勤倹勉励,饒ニ生業ヲ営ム者アリ,剛愎ニシテ恭順ナラス,闘諍訟ヲ好ムモノアリ,従来各藩ノ治化趣ヲ殊ニシ,幕領モ其間ニ厠ルヲ以テナリ」といい,地味は「郡内肥瘠大ニ同シカラス,郡ノ北部佐土原・那珂・広原等ノ地ハ真土或ハ砂真土多ク,其質大約中等ニ居ルト雖モ,広瀬以南赤江川ニ至ル沿海ノ地ハ軽砂如クハ黒ソミ土ノ類ニシテ,其質下等ニ居ル,又赤江川以南飫肥ニ至ル沿海ノ地ハ南ニ至ルニ陋ヒ地勢偏僻ト雖モ土性ハ大抵沃饒草木暢茂ス,故ニ文化中佐藤信淵列国ヲ歴游シテ日向ニ至リシ時,此土ヲ以テ皇国第一ノ沃土トシ,又飫肥ヲ以テ其最トス,見ル所ナキニ非ス,然トモ徒ニ其表ヲ見テ未タ其裏ヲ察セサル所アルニ似タリ,何トナレハ南方ノ土能ク万物ヲ生スト雖モ種子ヲ結フニ至テハ之ニ称ハス,故ニ桑・麻・茶・楮ノ如キハ能ク繁殖スレトモ,稲梁菽麦ノ類ハ茎葉根幹ノ生茂ニ比スレハ登リハ大ニ減ス,蓋シ南方温暖ノ気発生ノ力ヲ固フスル能ハサルニ由ル歟,飫肥以南櫛間ノ地ハ飫肥ニ比スレハ土性稍劣レリ,蓋シ独リ土性ノ劣ルノミニ非ス,亦人事ノ至ラサル所アルニ由ル歟」とある。また,村数は明治9年に75か村,このうち瀬頭村は同年恒久村から分村,折生迫村と内海村はともに同年加江田村から分村したという。そして,税地は田8,026町余・畑4,895町余・宅地1,474町余・切換畑697町余・不定田30町余・不定畑17町余・荒田21町余・荒畑1町余・荒地16町余・山林3,166町余・原野2,376町余・牧野106町余・藪323町余・芝地139町余・櫨場18町余・楮場1畝余・曝稲場4町余・曝網場1町余・物置場6反余・船囲場1反余・材木囲場48町余・池沼3町余・隄敷6町余・塩田26町余・塩浜7町余・製塩場7反・石取場1反余・土取場5反余の合計2万1,414町余,貢租は地租金9万6,766円余・雑税金3万9,103円余の合計13万5,869円余,戸数は本籍1万7,440・寄留30・社72・寺19の合計1万7,561,人口は男4万113・女3万7,864の合計7万7,977,牛860・馬1万8,082,日本形船1,292,牛車8,神社72,うち官幣小社1・県社1・郷社4・村社65,寺院19,うち禅宗1・法華宗1・真宗16・浄土宗1,人民共立小学校は95校あり,警察署は広瀬と飫肥の2か所,郵便取扱所は広瀬駅・内海村・飫肥本町駅・櫛間郡元町・外ノ浦の5か所にあり,星倉村に飫肥製糸所,平野村油津に造船場がある。さらに,民業については「郡中ヲ概シテ之ヲ算スレハ,農ヲ業トスル者七分ニ居リ,商工及ヒ雑業ノ者三分ニ居ル,田島以南熊野ニ至ル沿海ノ民ハ農暇雑魚ヲ網シテ生産ヲ助ク,折生迫・油津・大堂津・外ノ浦ニテヲ釣リ,櫛間ニテ鰩魚ヲ捕ヘ,七浦ニテ砂糖ヲ製シ,木崎原(熊野村)・大堂津(下潟村)・塩屋原(櫛間南方村)ニテ塩ヲ煮,野島(内海村)ニテ蚫ヲ采ルノ類,郡中ニ名アルモノニシテ南方ノ名産ナリ,郡ノ西隅西川内・北川内等山間ノ如キハ斧斤ヲ操テ山林ニ入リ,或ハ薪炭ヲ製スルヲ以テ業トス,近年飫肥諸村ニテ養蚕・製茶ノ業ニ注意ス,今僅ニ開明ノ門ヲ窺フニ過スト雖モ,奮励勉強共進シテ懈ラスンハ,縦令生業殷富ノ域ニ至ラサルモ庶幾ハ行行将ニ凍餒又患ヲ免レン歟」と記し,物産は動物類として折生迫・内海・油津・目井津・大堂津・外ノ浦でを釣り,年間で多い時には50〜60万尾,その次は20〜30万尾,少ない時は10万尾前後の漁獲高で,半分は生魚として郡内あるいは近郡の村々に売り,半分は乾魚として大阪や瀬戸内海諸国,あるいは北九州に移出し,西川・東川では6〜7尺の大鰻がとれ,櫛間では鰩魚を多い時には200万尾も漁獲し,そのほか羽鰹・鰮・甘鯛・小鯛・鮸・茅渟魚・鱸・鱣・鮪・鰆・鰺・鯖・鰘・鰤・鰣などがとれ,飫肥・櫛間の山間の村では牧を設けて名馬を産し,植物類としては平年で5万9,500石の糶を出し,茶は約2万斤を生産,ほかに菽麦・櫨子・油菜子・楮皮などを作り,器用類としては飫肥の材木が最大のもので,杉材木14万〜15万片・杉板1万4,000〜1万5,000坪・櫓木800〜900丁・櫓腕300丁・櫛木2,300丁・下駄木2,000丁・椎皮5,500本・標灰2,200箱・樟脳80丁・生臘1万2,000斤・蝋燭3,000〜4,000斤・樽4,000丁・炭1万俵8万束・苫5,000枚を製造すると記される。明治17年1月,当郡は南那珂郡と北那珂郡とに分割された。
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