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石見銀山領[中国地方]
角川日本地名大辞典

(近世)石見国東部の石見銀山の所在地邇摩(にま)郡大森を中心に安濃(あの)郡・邑智(おおち)郡・那賀(なか)郡の4郡146か村と,美濃(みの)郡・鹿足(かのあし)郡で6か村の飛地(天保郷帳)をもつ幕府直轄領。大森代官所支配。石見銀山御料・石州銀山御料,また大森に陣屋を置いたことから大森銀山領ともいった。慶長5年から慶応2年まで266年間存続。慶長5年関ケ原合戦後の11月18日徳川氏の代官頭大久保十兵衛・彦坂小刑部元正が毛利氏から銀山と領地を接収,石見国は徳川氏の所領となった。慶長6年10月坂崎直盛が津和野に封ぜられ,3万石余が津和野藩領となったが,元和2年9月坂崎家断絶によって再び幕府直轄となり,石見銀山奉行竹村丹後守の支配下に入った。翌3年,銀山領は4万3,000石余が津和野藩,元和5年,5万442石余が浜田藩に割譲され,石見国は東から石見銀山領・浜田藩領・津和野藩領に3分された。寛永20年陸奥会津若松藩主加藤明友が安濃郡大田(おおだ)に封ぜられ,銀山領のうち20か村が吉永藩領となったが,40年後の天和2年近江国水口(みなくち)へ転封となり20か村は再び銀山領へ戻った。銀山領・浜田藩・津和野藩はともに飛地などをもって錯綜した領域を形成したが,おおむね江川(ごうのがわ)以北の地域が石見銀山領となった。ただし江川交通の要地を占める江川以南の川本村と郷田村は銀山領に編入され,銅ケ丸(どうがまる)銅山の所在地である乙原村も銀山領となった。また邑智郡久喜村・大林村が久喜銅山の所在地,美濃・鹿足郡の津茂(つも)・日原(にちはら)・中木屋・石ケ谷・十王堂(じゆうおうどう)・畑ケ迫(はたがさこ)の6か村が笹ケ谷(ささがたに)銅山その他の鉱山の所在地として石見銀山領の飛地を形成した。貞享2年浜田藩の松平康明の別封であった邑智郡の原・伏谷・八色石(やいろいし)・布施・比敷(ひじき)・村之郷・宮内の7か村が,康明が嗣子ないまま死去したため上地され,以後八色石2,000石として銀山領となる。その後多少の出入があるが,石見銀山領の「天保郷帳」による領域は安濃郡30か村1万4,510石余,邇摩郡47か村1万6,647石余,邑智郡55か村1万4,953石余,那賀郡14か村3,457石余,美濃・鹿足郡6か村455石余,総計152か村5万23石余となる。石見銀山領は慶長6年大久保石見守長安が初代銀山奉行に任ぜられてから,延宝3年永田作太夫まで75年間は9代の奉行,同年柘植伝兵衛が大森代官に任命されてから慶応2年7月鍋田三郎右衛門まで190年間は,預りを含めて50代の代官によって支配された。地方(じかた)は領内を大田(おおだ)組(安濃郡15か村)・久利(くり)組(安濃郡11か村・邇摩郡10か村)・佐摩(さま)組(邇摩郡17か村・邑智郡1か村)・九日市組(安濃郡4か村・邇摩郡1か村・邑智郡27か村)・大家(おおえ)組(邇摩郡4か村・邑智郡26か村)・波積(はづみ)組(邇摩郡15か村・那賀郡14か村・邑智郡1か村)の6組と,津茂5か所(美濃郡1か村・鹿足郡5か村)に編成し,代官所と組との連絡調整機関兼組の宿所として6軒の郷宿を大森町においた。石見銀山経営に必要な物資確保のため大田組では才坂・市野原・円城寺・川合・池田・小屋原・小豆原の7か村,久利組では赤波・今市野原の2か村,佐摩組では佐摩・戸蔵・忍原(おしはら)・福原・三久須・白坏(しろつき)・祖式(そじき)・大国(おおぐに)・西田・湯里の10か村,九日市組では荻原・別府・小松地・惣森・志君・奥山・吾郷(あごう)・湯抱(ゆがかい)・川(河)戸・石原の10か村,大家組では馬野原(まのはら)・枦谷(かたらがい)・内田の3か村,計32か村を「銀山御囲村」に指定した。そのうち銀山へ木炭を供給する村として特別に忍原・別府・小松地・惣森・志君・湯抱が「炭方六カ村」に指定された。銀山領では領内警衛と歩一徴収のため要地に船表番所と口番所を設けた。船表番所は波根(はね)・鳥井・大浦(磯竹村)・仁万(にま)・温泉津(ゆのつ)・今浦・尾浜(後地(うしろじ)村)に置かれ,口番所は嶋津屋(朝山村)・温泉津出口・小浜堀越・小浜宮前・郷津(郷田村)・川登(市村)・住郷(谷住郷(たにじゆうごう)村)・坂本(川下(かわくだり)村)・川本・小原(粕淵(かすぶち)村)・浜原・都賀行(つがゆき)・都賀・酒谷・池田・志学(しがく)・久喜・井戸谷・千原・小屋原・多根・神原など江川の要津と国境の要地に置かれた。これら番所の修復その他経常費用は宝暦3年の改正で郡中負担から添村負担に改められた。そのため各番所の添村は村高合計で1,500石程度にほぼ平均するよう4,5か村宛に割り当てられた。この地域の検地は慶長7年大久保十兵衛による「石見検地」が施行されたが,第2代奉行竹村丹後守による寛永3年から行われた「寅の御縄」が以後の基本となっている。石見銀山領の年貢徴収の状況は刺賀村・忍原村・黒松村・都治本郷(つちほんごう)の年貢免状からみると,初期には比較的低率であるが,元禄・享保期にかけて急上昇し,享保10年から定免制に切り替えられた。享保15年の免は石高に対し0.6327,残高に対し0.6955(玉川治三:近世日本農民史)と全幕府領中で最高を示している。大森の石見銀山は慶長年間に最盛期を迎えるが,寛永年間にはすでに衰微し,回復に公費を投入するようになる。元禄年間頃から公費を領内富農に年賦償還で貸し付け,その利子で間歩の修復や新坑開発の資金とする「拝借銀」制度が行われた。中期以降は灰吹銀の産高は100貫前後を上下する状態となるが,ほぼ同量の銅も産出している。銀山領内の主要な事件として天明3年の大田騒動がある。連年の凶作下貧農や無高層の米価引下げ要求に端を発した米騒動打毀事件である。文久3年大和五条の天誅組事件や生野の乱が起こると,幕府領大森の緊張もいちだんと増し,浜田藩や広島藩の応援を得て領内警備を強化するが,民兵による自衛組織も試みられた。慶応2年第2次長州戦争に際しては領民は食糧や軍需物資の供出,軍夫徴発にかりたてられた。7月幕軍の敗退,浜田藩の落城により代官鍋田三郎右衛門は代官所を捨て倉敷へ逃れた。その直後7月24日安濃郡鳥井村から起こった百姓一揆はほぼ全域に波及する勢いであったが,進出した長州軍によって鎮圧され,石見銀山領は浜田藩領とともに長州軍の軍政下に置かれた。明治2年8月大森県の設置により維新政府直轄下に入った。