辞書一覧
検索結果一覧
6079件Hitしました
2831から10件/6079件中
江戸期〜明治22年の町名。甘楽郡のうち。はじめ幕府領,寛永10年から旗本恒岡氏・筧氏・天野氏の3給となる。このうち天野氏領は,天和元年旗本喜多見氏領,元禄4年から幕府御典医竹田法印領となる。慶長17年幕府代官中野七蔵は中山道脇往還に新町を作ることを計画し,小幡領瀬下郷へ宮崎村の住民を移住させることとした。延享3年の公用覚書(佐藤家文書)によると,その際,百姓の要望に対して,市日9日の市立て,下仁田産の砥石送付,問屋屋敷4の設置などを約束,慶長17年移住が行われ,言い伝えによれば,旧城下町の系譜を持つ宮崎村の中町が上町,宮崎村の上町が中町を形成し,瀬下郷の住民が下町を作り,富岡町が成立した。このとき宮崎村から諏訪神社を遷宮して,上町・中町の住民の鎮守とし,祭礼を中心に市を開き市神ともした。寺院では,宮崎村から同社別当の延命院(朱印10石),竜光寺(朱印26石)・本城寺などを移し,海源寺を建立した。また瀬下には上野国一ノ宮貫前神社の祓所の小船神社があり,朱印20石。同社は「上野国神名帳」の「従五位上小船明神」にあたる。別当福寿坊もあった。そのほか字屋敷に栖雲寺もある。社寺は中山道脇往還に沿い,曽木村曽木神社から瀬下に入って左折する所に寿福寺・満願寺,進んで右折する所に本城寺,その先右折する所に海源寺,さらに突き当たって左折する所に諏訪神社(別当延命院),七日市村境の上町に竜光寺,七日市村入口に永心寺と,七日市陣屋に向かう道路の曲点要所に配置されている。慶長17年の小幡領瀬下郷御縄打水帳によると,49字の田・畑・屋敷(5町余)を合わせて反別145町4反余,ほかに除地として大明神(小船明神)免畑5反余,福寿院・善明院・法泉院の3寺合わせて屋敷4反余とある(富岡史)。次いで元和3年の検地帳には「小幡領富岡新田御なわ打水帳」と見える(同前)。字数19,田・畑・屋敷ともで反別41町1反余,この検地では総反別が慶長検地の約3分の1,除地が竜光寺・延命院のみとなっており,屋敷地は上町・中町・横町・下町の4町名が明記され,その面積も17町1反余,慶長検地に比して面積で3倍余,百分比で3.8%から39.7%と10倍余となっている。新しい地割が5年の間に行われたとみられる。屋敷は上町54軒・中町40軒・横町16軒・下町47軒計157軒あった。寛永4年の検地では,34字,反別55町8反余,うち屋敷12町1反余,除地は竜光寺・延命院に本城寺・光明院・満願寺・海源寺・福寿院・雷電神社が加わり,問屋屋敷が上・中町に各1軒,下町2軒,および砥蔵屋敷が新しく見える(同前)。このときには宮崎村からの移転が完了したとみられる。家数は上町41軒・中町39軒・下町51軒・横町20軒とある。寛永10年上・中・下町5人組帳では,上町71軒・中町119軒・下町123軒が列記(同前)。水帳改めは寛文3年,延宝7年,元禄15年,正徳4年,寛延3年,明和7年,天明6年,寛政11年,文化9年に行われた。なお郷帳では,富岡村と見える。「寛文郷帳」では「留岡村」と見え,村高1,273石余うち田方689石余・畑方583石余,「元禄郷帳」1,337石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに同高。天保9年の富岡町明細帳(黒沢家文書)では,高1,297石余,内訳は下町の竹田氏領が545石余,家数95・人数360,除地は上野御蔵砥屋敷・宗光院・問屋屋敷,筧氏領が450石,家数87・人数357,除地は問屋屋敷・栖雲寺・福寿坊ほかに御朱印20石の小船大明神領に門前百姓12人,上町・中町の恒岡氏領が301石余,家数273・人数902,竜光寺御朱印26石のうち16石は宮崎村にあり,残10石の門前百姓3軒・16人,ほかに御朱印10石諏訪大明神領,除地は延命院・本城寺・光臨寺・満願寺・海源寺・問屋屋敷2軒とあり家数計455軒,人数1,619人である。なお富岡町の家数・人数の推移をみると,明和元年514軒・2,149人,天明8年482軒・1,972人,文政5年491軒・1,665人,天保4年455軒・1,619人,明治2年437軒・1,751人である(富岡史)。幕末の改革組合村高帳では,七日市村・一宮町両寄場組合に属し,高1,297石余,家数359とある。砥沢−下仁田−富岡−藤岡−江戸への砥沢砥(上野御蔵砥)輸送の中継地としての特権は,富岡町に大きく幸いし,また江戸中期頃からは商品荷物の多くも富岡町を通り,奥の下仁田から信州岩村田宿への中山道脇往還として栄えた。除地として砥蔵屋敷が置かれ,砥屋は,高橋(瀬下問屋)が勤めたが,明和8年に古沢・黛(中町)の2軒が新たに加わり,3軒で1年交代制となった(黒沢家文書)。しかしその後変遷し,寛政9年には坂本治兵衛家に移っている(見沢家文書)。文化14年の御運上御蔵砥継送り覚(黒沢家文書)によると,荷砥1万673籠,丸砥3,311籠,大砥5箇で計1万3,985籠と大砥5箇が通過しており,文政元年は1万3,272籠と大砥4箇,同2年は〆1万4,120籠と大砥20箇(同前),文政3・4年もおおむね近い数が運ばれ,輸送駄賃は1分につき6〜9駄で,富岡町や曽木・田篠・二日市・君川・星田・井戸沢の助郷6か村をうるおした。宿としての囲人馬は4人・2匹で,助郷は上記6か村が交代で勤めた。なおこれら6か村は幕府御用砥継送りなどの理由で,中山道の宿場への助郷免除をかち取っていたが,文政5年道中奉行へも出訴する町をあげての拒否運動にもかかわらず,遂に25年間251石分の安中宿伝馬助郷を申し渡されている。また富岡町と隣宿一ノ宮町との間では,万治2年石灰荷物輸送の争奪,寛文4年馬継場出入問題,宝暦3年から同9年にかけて馬継出入争いが起きているが,従来通りの和談成立で終わった。市は,新町創設時から宮崎市が富岡に移った形で,住民とともに移転してきた社寺を中心に開かれた。市の隆盛について寛延2年の富岡市之訳(黒沢家文書)には「明暦年中頃より弥々相賑ひ富岡中町市と罷成候,寛文年中上町瀬下町之三斎づつ小市相立,只今は大市小市九斎共に繁昌仕候」と見える。主要商品は絹・麻・煙草・紙・石灰・砥石などであった。特に富岡絹の集散地として栄えたが,文化年間絹のせり買い商人が多くなるにつれて絹市が衰え,やがて富岡・高崎・藤岡の絹商人の反対にもかかわらず吉井絹市が新設され,さらに京都・大坂・名古屋・江戸の大問屋が藤岡絹市に出店を置き富岡絹市は益々衰えた。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県北甘楽郡に所属。明治初年絹市は九斎市から高崎5・10の日,藤岡1・6の日,富岡2・7の日の市となり,明治18年群馬生絹太織合同組合が設立されて,第3支部が富岡に置かれた。製糸は同13年光勢組や七日市組をはじめ郡内13組の揚返工場が北甘楽精糸会社を作り,富岡に事務所を置き,主として米国に輸出した。蚕種製造業者は明治4年に21名で2,175枚の種紙を製産,43%は輸出した(古沢家文書)。同8年鏑川組蚕種製造組合を結成。55人中富岡町から45人が参加している。そして明治5年には官営富岡製糸場が政府によって建設され,機械製糸の技術伝習工場として全国から工女が集まった。工場敷地1万5,606坪。仏人ブリューナ以下検査人・機械方・医師など7人,女工4人,日本人は官吏のほか職工38人・工女550人で,年間2,190貫の生糸を生産した。同9年韮塚直治郎経営の製糸場が開場,男・女工54人で年間324貫を製糸。同26年官営富岡製糸場は三井に払い下げられ,同35年原合名会社に譲渡された。明治6年邏卒出張所を本城寺に設け,同8年富岡警察署,同20年北甘楽警察署と改称,その後旧称に復した。明治4年には富岡中牛馬会社が本庄〜富岡郵便逓送を開始,4等郵便役所を中町に設置。同20年電信・電話を富岡製糸場に設置,同23年富岡郵便局に移転,電話は同41年開通。明治6年埼玉県本庄の諸井五左衛門が本庄〜富岡間に乗合馬車を開き,約2年で廃業。同8年富岡町有志が新町〜富岡間に乗合馬車駸駿社を開業,同14年廃業。農工資金貸与機関は明治9年第3生産会社が設立され,社員118人,貸出金額6万8,254円(県統計表)。同16年富岡私立銀行が開業したが,数年で解散した。同22年富岡町の大字となる。
次の10件