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(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。はじめ1〜3丁目,昭和42年からは1〜4丁目がある。江戸期は鳥取城下四十八町の1町。町人地。鳥取城の南西,城下町の中央部に位置し,智頭(ちず)街道・鹿野街道が通る。北は二階町2〜4丁目,東は新町,南は川端2〜4丁目と接する。町名の由来は魚商が最初に置かれたことにちなむが,のちに上魚町・下魚町と区別して呼んだものである。俗称では上魚町を大工町,下魚町を蛙(かえる)町と呼んだので,単に魚町とも呼ばれていた(鳥府志)。家数は,寛永11年に1丁目28・2丁目30・3丁目36(因幡志),安永7年に1丁目47・2丁目57・3丁目83(藩史5)。安永7年の表口間数・町役負担数は,1丁目133間余・103人余,2丁目133間余・102人余,3丁目176間余・167人余(同前)。1丁目には次第に魚屋はなくなっていった。2丁目には魚問屋場が置かれていた。3丁目は鹿野街道を挾んで両側に位置し,魚問屋場が置かれ,2丁目と1か月交代でつとめた。両問屋場とも問屋は3人で,魚類は城下および周辺部まで売買された。間物座も置かれ,問屋は3人で,塩・魚・干物・海草・素麺・畳表などを取り扱っていた(鳥府志)。江戸期を通じて城下町の商業の中心地の1つとして発展した。弘化3年から明治5年まで高田牧一郎が栄松堂という名の寺子屋を開き,明治5年の生徒は400人,うち男300人・女100人,また慶応3年から明治4年まで稲岡直松が蒼竜堂と称する寺子屋を開いて算術・読書を教え,明治3年の調査では生徒220人,うち男160人・女60人(藩史3)。明治9年の戸数・人口は,1丁目54・212,2丁目55・221,3丁目85・304(鳥取市史)。同22年鳥取市に所属。昭和の初期頃まで商業地区として繁栄したが,昭和27年の鳥取大火後商業の中心が東方の若桜(わかさ)街道沿いに移動し,当町は老舗街として現在に至る。昭和42年一部が川端1〜5丁目・二階町1〜4丁目となり,藪片原町・川端1〜4丁目・四丁目尻・魚町尻・二階町1〜4丁目・茶町の各一部を合併。魚町尻・元魚町3丁目・茶町・四丁目尻の各一部をもって4丁目が成立し,1〜4丁目となる。世帯数・人口は,昭和35年213・859,同45年213・745。
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