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貫荘(中世)[福岡県]
角川日本地名大辞典(旧地名編)

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。豊前国企救【きく】郡のうち。宇佐宮領。「宇佐大鏡」では「本御庄十八箇所」の1つとし,荘内本国領33町7反は,天喜2年に上毛郡15町6反300歩・宇佐郡5町8反6畠等と相博し立券されたとする。天喜2年は33年毎の宇佐宮式年造営年であり,それを期に散在神領の集中化を図ったのであろう。また,「宇佐大鏡」には国々散在常見名田の1つとして貫入田の名が見えている。建久図田帳には宇佐宮領として貫荘80町が見え(到津文書/鎌遺926),年未詳の宇佐宮御神領次第案では仁治2年散田帳に云くとして貫荘は10の名【みよう】で編成されていたことが記されている(同前/大分県史料30)。それらの名のうち今吉,元重,時重名については文保元年,明海房源意の娘大神氏代人経方および宇佐大宮司以下の神官と,御家人久保六郎種栄との間に争論があり,双方とも関東代々下知状,代々の譲状,はては右大将家建久御下文まで持ち出して争うが,結局同年8月25日貫荘弁済使職は社家,下地は久保種栄の進止との裁許が鎮西探題北条随時によって下されたようである。この争論を通じ,神領であった貫荘が次第に在地領主層に侵食されていく様子がうかがえる(黒水文書/天満宮史料10)。同文書中種栄は「大小御公事」を勤仕しているとあるが,その一例としては,文永年間かと思われる年未詳3月日の宇佐保重申状上代に貫荘より進上の御祭御供菓子がみられ(永弘文書/鎌遺9250),貞和4年12月29日の番長宇佐保範注進状では貫荘今吉名御薗より薯預1籠50本・野老1籠・栗1籠3升・串柿3連・莚3枚を春冬二季の御祭ならびに五月会に進める,ただし近年は代銭1貫文を課すとある(到津文書/南北朝遺2568)。また,長禄2年5月22日の宇佐宮年中供米菜免注文では御菜免所として「規矩郡貫荘内御薗」が記され(同前/大分県史料1),この間には地下百姓の抵抗もあったらしく,応永元年12月8日には仮名永弘(永弘重世)より今吉名国安所にあて,百姓らが不沙汰をするので,地下を改めて一円に沙汰し神物を進ずべき由が伝えられている(永弘文書/同前1)。文明3年かと思われる年月日未詳の宇佐宮御灯油田並御菜免田畠屋敷坪付では「一所貫荘今吉ミその」とある(同前/同前4)。ところで,南北朝期には正平21年12月17日の日付を有する近江国東浅井郡誓願寺鐘銘に「西海道豊州規矩郡貫荘八幡宮」の記があり,願主として伊勢守沙弥是心の名が知られる(東浅井郡志)。文保元年の相論中には貫荘弁分の語がみられる。弁分については別符と同じとする説等諸説があり確定しがたいが,編成名とは異なる支配原理で構成されているようである。この弁分内に都地別所新光寺領免田畠があることが弘長2年9月25日および嘉元4年正月15日の僧聖雲譲状(真光寺文書/鎌遺8874・県史資料10)に見え,同じく院主職の譲状が応永15年3月7日,文明12年11月15日にもみられる(同前/大日料7-11・8-12)。また,応永30年4月日には貫弁分より夫10人が放生会に勤仕している(矢野文書/大分県史料2)。次に領有関係をみると,文保元年の相論の文書により宇佐宮神官から御家人久保種栄に渡っていることが知られるが,このうち今吉御薗については,前述の応永元年12月8日の永弘重世書下によって国安所の一円沙汰が知られる。永享6年7月1日には黒水又三郎に貫荘内田畠が安堵されているが,この黒水氏は久保種栄の後裔で下毛郡黒水を苗字の地とし,貫荘にも威をふるった(黒水文書/県史資料10)。次いで文明10年正月11日の連々自訴次第事によれば,貫荘80町の内,弁分次郎丸名本領地25町は黒水(久保)種興の代に20町が妙善院に寄進され5町が子息和阿に譲与され,さらに和阿の子左馬助種秀に草庭名2町5反,大炊助種興に畠仲名2町5反が分与されたことが知られる。以後この地は黒水氏に代々知行されたことが永正16年2月26日,天文11年4月15日,同13年7月26日,同21年8月25日の譲状類に見える(同前)。この頃には大内氏支配地となったらしく,前述の文書群には大内持世・持盛・教幸・義興・義隆らの名が認められる。一方,黒水氏と並ぶ貫荘の在地領主貫氏については,文明15年4月15日・同28日の番長大夫永弘重幸下作職売券に,今吉名御薗は文治年中より番長大夫役人として永弘氏が知行してきたが,その下作職を貫又二郎助国および貫伊勢守助世にそれぞれ代18貫文,10貫文にて永代売買し,替わりに毎年各々さいせん600文を提出することとある(永弘文書/大分県史料4)。ここに登場する貫氏は南北朝期より戦国期に至るまで黒水氏と通婚しつつ,荘内に威をふるったとみられる。永禄4年毛利氏と大友氏との門司合戦において討死した貫助八は貫荘の住人であり,同年11月23日助八老母に対し毛利隆元より貫荘内75石が遣わされている(萩藩閥閲録150)。