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(近世〜近代)江戸期〜現在の町名。江戸期は丸亀城下の1町。丸亀平野の北部に位置し,丸亀城の北にあたる。南北の本通りを中心に形成された町で,「西讃府志」には「富屋町ヨリ東ニ入リ葭町ニ出ル町長二町七間余,銀札場ヨリ北ニ折レテ西平山ニ至ル本町ト号ク長サ二町五十七間余,本町ヨリ東ニ折レテ米屋町ニ出ル畳屋町ト名ク長五十一間余,漸ク西ニ折テ富屋町ニ至ル二十間,松屋町通リ西ニ折テ横町ニ至ル七十間,東ニ折テ松屋町ニ至ル二十間,又東ニ折テ宗古町ニ出ル十六間,富屋町ヨリ続ク所,堀側町二十間」とある。町域の大部分が山崎氏時代に形成され,万治年間の城下図には新町と記されている。地名の由来は,丸亀城下の中心部を構成し,本通りをもつことから起こっている(丸亀市史)。城下の大年寄の下に町年寄が町政を担当した。棒役28本4歩5厘。「西讃府志」によれば,戸数229・人口712(男360・女352),馬2,修験の実想院がある。港から城郭に至る本通りを構成し,城下の中心的商業地として発展した。畳屋町には町会所が置かれ,南詰には銀札場があって藩札発行の任にあたった。銀札場から真東にあたる大手門の真北の地には豪商見付屋の屋敷があった。同家は大年寄の任を勤め,本陣にもなった。同屋敷は,明治初年の地図には敷地956坪とあり,その大庭園と蘇鉄が名所である。また,北側は入海となっており,横町との間に京橋が架けられていたが,南部の埋立て後は,浜町との間に新京橋が架けられた。なお新京橋は明治3年旧下級武士の窮乏対策として実施された入海北部埋立てにより消滅した。江戸後期にみられた金毘羅参詣の隆盛は当町に繁栄をもたらし,問屋や商店などが並んだ。明治4年の問屋株所有35軒のうち当町は3軒。名東(みようとう)県時代には那珂郡事務所および戸長事務所が置かれた。明治11年には丸亀町の1町となり,同18年まで西組に所属。同年合併した東西事務所が置かれた。同23年市制町村制施行により丸亀町の1町となり,同32年市制実施にともなって丸亀市通町となる。旧銀札場跡は延寿閣として旧藩主京極高朗の居宅となっていたが,明治4年郷校,翌年学制頒布により第一小学校となった。同年丸亀郵便取扱所,同10年電信分局が開局。同13年百二十七国立銀行が開行。同45年警察庁舎を設置。大正7年讃岐電気軌道移転。同14年旧銀札場の地が貫通,堀端までの貫通道路ができた。なお本通りは三浦から続く国道(現市道)として中心道路の役割を果たしたが,昭和7年には一部舗装,同13年には拡張事業が竣工された。明治4年の町の広さ9,025坪余。同21年の戸数266・人口1,002,うち旧士族136,職業別人口は商業517・工業96・雑業389(丸亀市史)。同25年外堀を挟んで南に隣接する旧軍用地の一部を編入,その地が丸亀の交通センターとなったが,同地は同57年大手町1〜3丁目となる。昭和56年城西町の一部を編入。第2次大戦後外堀が埋め立てられ南側が地続きとなり,同33年埋立地は国道11号(現主要地方道高松丸亀線)となった。同43年の豪雪によるアーケード被害を機に,翌44年延長332mのアーケード改造およびカラー舗装を完成,丸亀商店街の中心として発展を続けている。世帯数・人口は,昭和27年285・1,254(男573・女681),同55年142・512(男220・女292)。
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