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丹後国[京都府]
角川日本地名大辞典(旧地名編)

天正8年8月丹後国宮津八幡山城に入った細川氏はただちに浜に新城を築いて移った。翌9年織田信長は細川藤孝宛朱印状で,丹後国領知方の事,国中残る所なく糺明を遂げ諸給人手前面々指出の員数相違なく宛行うよう命じた。それにもとづいて同年9月一色知行分として2万石,同じく矢野藤一に4,500石を渡し,出目分は細川藤孝に与えた。久世戸門前の指出(智恩寺文書)は同年8月で奉行人は米田【こめだ】宗堅である。丹後における太閤検地に相当するものは慶長7年京極高知が行った検地である。その検地帳は写本も含めて現在83か村のものが確認されている。極めて零細な農民も名請人として登録されている。18世紀頃になると独立農民となる半隷属的な身分の農民がみられるいっぽう,各地のかわらもの・ちようり・かわた・はちひらき・下人・名子と呼ばれた人々がその村の屋敷持層としてあがっていることが多い。検地高は292か村・12万3,175石(慶長検地郷村帳)であった。元和8年京極高知が死去ののち丹後は宮津(7万8,175石)・田辺(3万5,000石)・峰山(1万石)3藩に分けられた。貢納についてはまず石高についていえば宮津藩は延宝年間に平均3割方の延高をしたが,田辺・峰山藩は近世を通じて大きな高の変動はなかった。しかしいっぽう免についていえば,宮津藩は低く,田辺藩は高く,7ツ〜8ツというのは珍しくなかった。とりわけ小物成についての田辺藩の徴収方法はあらゆる土地の産物について運上をかけてその種類は20種類を超えた。宮津藩は京極氏以降,代官―永井氏―代官―阿部氏―奥平氏―青山氏を経て宝暦8年本庄氏に変わって維新に至った。田辺藩は京極氏が寛文8年但馬豊岡へ転じたあとへ牧野氏が入って以後変動はなかった。峰山藩は京極氏で終始した。宮津藩の場合,青山氏4万8,000石から阿部氏9万9,000石というように知行高に大きな開きがあった。そのため宮津藩の村々は藩主の知行高にあわせるために一時他の代官領に入れられたり,あとから復帰したりして変動があった。代官領となったものははじめは但馬生野代官所・近江大津代官所・京都二条陣屋などに属したが出張陣屋は丹後に置かれた。享保2年青山氏が宮津入城以後はその時宮津領から削られた4万2,000石とその以前からの代官領を含めて湊宮(現久美浜町)陣屋が取り立てた。のち久美浜に移されて久美浜代官所となった。丹後にはそのほかに竹野郡・熊野郡の一部21か村が但馬出石藩領に編入されたことがあった。また,丹後ちりめんの創業地は与謝郡加悦谷地方(現加悦町・野田川町)と中郡峰山町の2か所があって,いずれも享保初年に京都西陣から技術を修得したと伝える。貧しい百姓の余業にその「助力を以て御年貢上納仕来り百姓立行」くために始めたのであるが,機数は急速にのびた。しかし機業の形態は大部分が零細機屋で,しかも糸問屋・親方機屋といわれる商業資本に,掛機・歩機のかたちで依存していた。文政3年中郡口大野村に大会所を設けて宮津藩・峰山藩・久美浜代官所領内機方の統制取締りを策したが機能を発揮しなかった。丹後沿岸の漁業は細川氏時代から少しずつ発展していった。宮津田辺城下の漁師は田辺籠城の時細川幽斎らを援けたので恩賞として「波打際三間御領内勝手次第の働き」を許されたと伝えるが,こののち漁業の最も発展したのは城下を離れた与謝郡伊禰浦3か村(日出・平田・亀嶋),加佐郡田井村などの鰤漁場であった。由良川に鮭漁,丹後半島北部海岸には海女の潜海漁業も行われた。竹野川・野田川などの流域や海岸地帯の村々で田畑の川欠・海欠の多い地域では田地の割替(田分け)が行われた。割替えの時期は5〜20年と長短があり,定期・不定期とさまざまであった。伊禰浦3か村では鰤網を中心に株組織がつくられ,共同漁業の制がつくられた。近世農民の一揆・強訴は宮津・田辺両藩に最も多かった。