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根来寺[近畿地方]
角川日本地名大辞典

那賀郡岩出町根来にある寺。新義真言宗総本山。一乗山大伝法院と号す。本尊は大日如来。和泉山脈の南麓に位置し,根来山,根嶺の呼称もある。平安末期,正覚坊覚鑁(興教大師)が建立した高野山内の伝法院(大伝法院)に始まる。鎌倉後期,金剛峯寺衆徒との対立から頼瑜が当地に移転,以来発展を遂げ戦国期には多くの子院・堂宇・僧兵を擁する大寺院となった。僧兵を中心とする根来衆は鉄砲をいち早く取り入れ優れた軍事力を誇ったが天正13年豊臣秀吉勢に敗れ,大伽藍も灰燼に帰した。江戸期,藩主・将軍家の援助を得て復興を遂げ,新義真言宗総本山としての現在の地位を築く。伝法院の創建は平安後期の大治4年ごろで新義真言宗の開祖といわれる覚鑁が鳥羽上皇の勅願により春冬2季の伝法会(修学会と練行会)の再興のため高野山内に建立した。大治4年11月3日付鳥羽院庁牒案によると「東限岡田村西境并沼田畠 南限大河北岸 西限市村東境 北限弘田庄境」を四至とする石手荘が伝法院料として立券された(根来要書下/平遺2145)。覚鑁はこれより先,大治元年ごろより伝法二院の復興をめざして石手荘の獲得に乗り出していたが,大治4年に至って鳥羽上皇の帰依を得ることに成功し,伝法院の建立に至ったのである。伝法会とは真言宗の依用する経・律・論・疏の講演・法会をいい,空海没後さびれた高野山を盛時にもどす大きな役割を果たした。また覚鑁自身は,空海の密教の本義にのっとって密教と浄土教とを融合。その著「五輪九字明秘釈」で大日如来と阿弥陀とは一体であることを説いており,秘密念仏思想の先駆者ともいわれる。その後天承元年,伝法院が狭小であるため「七間四面御堂」に拡張し,大伝法院と改称。翌長承元年10月には鳥羽上皇臨席のもとで盛大な落慶供養が行われた(同前,中右記/大成)。同時に覚鑁の自坊密厳院の落慶供養も行われ,12月には相賀荘が密厳院領として立券された(根来要書上/平遺2253)。さらに,大伝法院領として石手荘に隣接する岡田荘・弘田荘・山崎荘と名草(なぐさ)郡山東荘が施入されている(同前)。このように大伝法院の経済的基盤が確立し,長承3年6月4日付金剛峯寺請官符事によると大伝法院には座主1,上座1,寺主1,都維那1,学頭2,供僧15,学衆36,練行衆6,権学衆70,夏衆50など201人,密厳院には院主1,供僧6,聖人15,練行衆6など37人からなる教団組織が認められた(根来要書上/興教大師伝記史料全集史料集2)。覚鑁は大伝法院・密厳院を拠点にして高野山全体の管理支配をめざし,長承4年2月日付覚鑁譲状によれば長承3年大伝法院座主と金剛峯寺座主を兼任することになった(同前)。その間,新義派の隆盛を快く思っていない金剛峯寺衆徒(古義派)との間に対立抗争が起きる。鳥羽上皇は覚鑁を支持。保延5年7月には大伝法院に新たに聖人60口を設け,供料として安芸国能美・可部荘を施入し,抗争の停止を命じる院庁下文を発給した(根来要書下/平遺2412)。しかし,抗争は激化し高野山検校帳によると保延6年12月7日金剛峯寺衆徒が密厳院を襲撃し「又伝法院住僧坊舎七十余坊切払了,僧徒七百余人追出」す乱行に及んだという(高野山文書/大日古1‐7)。その後覚鑁は大伝法院・密厳院の僧徒を連れ弘田荘根来にあった豊福寺に移った(高野春秋)。豊福寺は長承元年12月9日付鳥羽上皇院宣案に大伝法院の末寺と見える(根来要書上/平遺2253)。また「諸山縁起」の葛城縁起の宿次第では「三十四 豊福寺〈菩提井,行者ノ閼伽井也〉」とあり葛城修験の道場であったことがうかがえる(諸寺縁起集/図書寮叢刊)。その後覚鑁は根来に円明寺と神宮寺を建立。康治2年2月鳥羽上皇の御願寺として落慶供養が行われた(根来要書上/興教大師伝記史料全集史料集2)。根来下山後も鳥羽上皇の帰依は厚く,前年12月に伊都(いと)郡渋田郷が大伝法院領とされたが(根来要書上/平遺2492),同年12月12日覚鑁は入滅した(元亨釈書)。覚鑁入滅後,根来に下山していた僧侶の多くは徐々に高野山に帰山。大伝法院系の寺院は鳥羽上皇の皇后美福門院,皇女八条院・高松院らの寺領寄進を受け高野山内で発展したが,新義派と古義派との対立はなおもくすぶり続けた。仁安3年正月の大伝法院修正会の時,大伝法院の堂の荘厳や僧の衣服などが弘法大師起請に背いて華美であるとして金剛峯寺衆徒が抗議。再び大伝法院と金剛峯寺との武力による全面衝突が起こった(愚昧記・兵範記仁安3年5月3日条)。裁決は検非違使庁にゆだねられてひとまず決着。「裳切騒動」といわれる(同前・高野春秋)。その後安元元年,仁治2年,寛元元年,宝治2年,弘安年間と争いは繰り返された(高野春秋)。正応元年ついに大伝法院主頼瑜が大伝法院と密厳院を根来に移転(同前,結網集/仏教全書106など)。この時点で新義真言宗は分立し,今日の根来寺の基が築かれた。鎌倉末期になると,平安期に確立した荘園のうち遠隔地の荘園は退転しはじめ,遠隔地の荘園を整理し,膝下に集めようとする傾向が高野山などで顕著になってきた。この動きは根来寺にも影響を及ぼした。紀ノ川河南に位置する渋田荘,同川の南北に広がる相賀荘は高野山領に隣接するため,寺領の境界をめぐっても金剛峯寺と争うことになった。元弘3年10月後醍醐天皇は「御手印縁起」の四至を承認する綸旨を高野山に下賜(高野春秋)。これに根来寺側は抗議をするが(束草集/校刊美術史料28),南北朝中期ごろ以降渋田荘と相賀南荘は高野山領となった。南北朝に中立的立場をとった高野山に対し,根来寺は北朝の庇護を求め,建武3年12月足利尊氏から「元弘以来高野山伝法院領并当知行地」を安堵された(醍醐寺文書/大日古19-1)。さらに同4年3月には四季大般若転読料として和泉国信達(しんだち)荘の寄進を受けた(同前19-2)。信達荘は和泉山脈を介して根来寺に接しており,根来寺が和泉国へ進出する拠点となる。観応元年10月,光厳上皇から大伝法院座主は醍醐寺三宝院門跡が相伝せよという院宣が出された(三宝院文書/大日料6-13)。宛所の三宝院門跡賢俊は尊氏の信任を得て伝教界・政界で活躍した僧で,幕府との関係はより深いものになった。応永3年12月の足利義満の信達荘安堵以来永享8年4月の足利義教の紀伊・和泉国寺領安堵に至るまで歴代将軍の御教書を得ている(醍醐寺文書/大日古19-1・2)。このような幕府の庇護下において,寺辺の弘田・岡田・山崎・石手・山東・相賀北・信達・直河荘を領し,経済力のみならず武力も増強させていった。長禄4年5月,根来寺と粉河円福寺との間に水樋相論が起き,円福寺方を支援した守護畠山義就勢は根来寺の攻撃を受け敗走する途中紀ノ川で1,000余人を溺死させたという(碧山日録/集覧25,大乗院寺社雑事記)。これは守護と対立抗争する力を貯えた根来寺の成長を示す事件である。戦国期は根来寺の最盛期であり,他所領への介入,土地集積が展開され,泉州・南河内にその勢力を伸ばしていった。他所領への介入は,土倉や禅宗寺院同様,荘園領主に対する高利貸活動を通して行われた。和泉国日根荘においては,根来寺閼伽井坊が明応8年に同荘日根野・入山田両村の代官職を獲得(九条家文書1/図書寮叢刊)。永正元年には,同荘代官職に補任されている(政基公旅引付/同前)。このころ閼伽井坊のほか杉ノ坊・泉識坊・成真院など行人方に属したと思われる坊舎が多数存在した。これら院坊の僧兵を中心とする軍事集団がいわゆる根来衆である。中でも杉ノ坊は泉識坊とともに根来衆の指導的役割を果たした坊舎で,那賀郡小倉荘の土豪津田氏持ち(紀伊国旧家地士覚書/大日料11-4)。紀州那賀郡一乗山根来寺伝法院之図(延宝5年書改)によると覚鑁御影堂(現在の円明寺)の北西,桃坂峠を経て和泉に通じる蓮華谷筋の三叉路角にあった。泉識坊は海部(あま)郡雑賀衆の土橋氏持ちで,やはり蓮華谷北部の交通の要地に位置した(同前)。西蔵院は和泉国佐野の藤田氏持ち(藤田家文書/泉佐野市史),成真院は同国熊取荘の土豪中氏持ち(中家文書),威徳院は名草(なぐさ)郡岩橋(いわせ)の湯橋氏持ちと(続風土記),その多くは土豪・地侍層の所有坊としての形態をとっていた。根来衆は鉄砲伝来以後いち早く射撃・製造に習熟し,優れた鉄砲隊を有した。「鉄炮記」(南浦文集)によると,天文12年8月のポルトガル人種子島漂着の際「紀州根来寺に杉之坊某なる者有り,千里を遠しとせず我鉄砲を求めんことを欲」し,杉之坊に鉄砲と火薬の法を伝えたという。ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスは当時の根来衆について「彼らの本務は不断に軍事訓練にいそしむことであり……日本の武将や諸侯は,互いに交戦する際,ゲルマン人のようにこれらの僧侶を傭兵として金で傭って戦わせた……」と述べている(日本史)。元亀元年秋織田信長が三好三人衆を攻めた摂津国での野田・福島の合戦の際,信長方として出陣,動員数は8,000とも2万ともいう(尋憲記/大日料10-4,言継卿記/纂集)。石山本願寺合戦直後の同年9月14日には顕如の支援要請にもかかわらず(顕如上人文案/石山本願寺日記下),河内国の一向宗道場を破却・乱妨する挙に出ている(言継卿記/纂集)。かくて根来衆と雑賀衆との対立は天正5年の信長の紀州攻めまで続いたと考えられる。雑賀とは紀ノ川河口に広がる豊かな穀倉地帯で,古代から開発の進んだ地域。雑賀五組といわれ,雑賀郷・十ケ郷・宮郷・中郷・南郷から成り立つ。各郷には指導層として土豪や有力農民がおり,泉識坊の所有者土橋氏,雑賀一揆の中心となった鈴木孫市が著名。対立関係にあった根来衆と雑賀衆とを結び付けたのは土橋氏と思われる。天正5年以後鈴木孫市が親信長路線をたどるのに対し,土橋氏と根来衆は反信長色を強めていった。天正8年の信長と石山本願寺の和議成立後,信長方に対し顕如の命に従うことを誓約したが(顕如上人文書・本願寺文書/新編真宗大系19),反信長路線は内部分裂を含みながらも続けられ,信長没後,反秀吉路線へと引き継がれた。天正12年の小牧・長久手の戦で織田信雄・徳川家康に加担。同時に和泉国岸和田城などを攻撃している(イエズス会日本年報/和歌山市史4,中村一氏記/続群20下)。しかし翌13年3月ついに秀吉軍の前に根来衆・雑賀衆は敗れ,ポルトガル人から紀ノ国の共和国の1つと評された根来寺の僧侶は四散し広大な伽藍も焦土と化した(小早川家文書/大日古11-1,イエズス会日本年報/和歌山市史4)。大伝法院の本堂(大伝法堂)・多宝塔(大塔)・一切経蔵などが焼け残ったが,大伝法堂は解体された(宇野主水日記雑記/石山本願寺日記下)。天正13年以前の根来寺内の景観は未詳であるが,前掲の諸史料,「大伝法院七堂伽藍略記」「一乗山根来寺全山図」「一乗山根来寺伝法院之図」などの絵図,元和元年諸寺覚書(浅野家文書)の紀伊国根来家数之事などから,近世以前に存在していたと確認される院坊約75,存在時期が曖昧な院坊約300,大門・地蔵堂・阿弥陀堂・稲荷明神社・不動堂・経蔵・求聞持堂・鐘楼・大伝法堂・大塔・毘沙門堂を含む100余の堂宇の存在がうかがえる。また昭和53年から始められた発掘調査によれば現在確認されている数よりもはるかに多い堂宇が存在したと考えられる。なお遺物には元代,明代の染付,白磁,青磁や「三石」の刻名をもつ備前焼大甕や摺鉢・壺,常滑焼,丹波焼等内外の遺物が多数出土している。根来寺は根来塗と呼ばれる漆器でも有名。最古の記年銘は平安期の永長2年,終末は天正〜慶長年間で,以後は海南市の黒江漆器,能登の輪島塗に引き継がれていったという。このように古代〜中世において政治・経済・文化に多大な影響を及ぼした大寺院であり,天文18年10月16日付フランシスコ・ザビエル書簡では「都の大学のほかに主なる大学五校あり,その名は高野,根来,比叡山,多武峰……」と紹介されている(イエズス会士日本通信/和歌山市史4)。根来寺が多くの伽藍・塔頭を失って15年後の慶長5年10月再興の許可が出された(義演准后日記/纂集)。11月には浅野幸長が入国,根来寺の四至を明らかにし,再興への準備がなされた。しかし,再興に際しては種々の問題をかかえていた。根来衆の整理,また根来寺の学侶方の復興が遅れたために,子院の1つ妙音院の専誉が大和の長谷寺小池坊に開いた豊山と,智積院の玄宥が京都に開いた智山の両山の末寺とされ宗勢の回復がいまだなされないこと,さらに大伝法堂を中心とした堂塔の再建などである。まず根来衆の一部60人は浜松城で家康に召し抱えられ,その後,伏見城で40人が抱えられた。計100人を根来百人衆とよび,伊賀・甲賀組とともに江戸城の番所や伏見城の警固番にあてた。その他の根来衆のうち110人が和歌山藩に召され,根来同心と呼ばれ,鉄砲組を編成。鉄砲組以外の者は鳥見役や山廻り役にあたった(贄川福蔵院文書)。根来百人衆も,根来同心も,根来衆の情報収集能力,鉄砲を扱う技能を評価されたからで伊賀組と同じ扱いを受けたことは注目される。根来寺再興の具体的な動きは慶長6年の26人の離散僧侶の帰山から始まるが(根来寺院血脈),江戸期全体からみて活動は2つの時期に集中している。慶長〜寛永年間にかけての第1期と寛政〜天保年間にかけての第2期である。第1期の慶長14年,大和国長谷寺の秀算らが家康に大伝法堂の再興を願い出て,山内から持ち出されていた本尊の大日如来と脇侍を藩主浅野幸長から返却された(真言諸寺記など)。焼失後30年を経た元和元年の浅野家事記の紀伊根来寺家数之事に学侶院8,行人衆の院51の計59院坊がみえ,かなり復興したことがわかる。元和5年家康の十男頼宣が入国し,復旧の鍵を紀伊徳川家が握った。寛永10年の定条々之事では81,宝永7年の定では85と徐々に院坊数を増加させている(根来寺文書/県史研究7)。宝永4年2月には徳川綱吉の帰依を受けていた護持院隆光が大伝法堂の再建を計画したが(護持院日記抄),失脚により果たせなかった。その後智山・豊山から独立しようという本末寺争論が起き,宝暦元年に両学頭に定められた律乗院と蓮華院が中心となり藩の保護の下に学侶・談林の改派を行い,本山としての地位を獲得した。寛政元年の人別改帳(根来寺文書)に寺数93(学頭2,寺中87,穀屋4),僧侶45人,末寺43が記録され,このころから金堂に相当する大伝法堂再建の動きが活発となる。寛政9年5月前小池坊僧正の蓮華院主法住が根来寺大伝法院再建意趣を作成(根来寺文書/県史研究7)。その意志は蓮華院・律乗院・大伝法院兼帯の栄性らに引き継がれ,文政7年ついに大伝法堂が上棟・完成した(同前)。この間根来寺役僧が全国を勧進行脚して浄財を集めた。その範囲は関東・信越・九州にまで及ぶ(同前)。棟札には大檀那として8代藩主徳川重倫と生母清信院の名が記されており,再建の際の藩主の協力を物語る。江戸期の「続風土記」によると根来寺山内は円明寺境内,豊福寺境内,大伝法院境内,密厳院境内の主要ブロックのほか菩提谷・閼伽井谷・鼓谷・大谷・小谷・西谷・蓮華谷・三岡・前山のブロックに分かれ,それぞれ堂塔や院坊をかかえていた。しかし院坊の数は激減しており,江戸期のピーク時の4分の1にも満たない。宝暦年間の改派独立後も智山・豊山の両山との関係が続いた。明治18年智積院・長谷寺が真言宗新義派を称す。翌年以後根来寺を同派の根本道場と称し,根来山主をその総主とした。同33年智山派・豊山派に分裂してから,両派交替で大伝法院座主を選出することになった。第2次大戦後,東は東坂本から西は西坂本に至る2.1km,北は和泉山脈の一乗山から南は前山に至る2.2kmからなる広大な寺域は,国有林・寺地・民有地に三分されたが,新義真言宗を結成し総本山となった。ただし,円明寺と西谷の愛染院は真言宗豊山派,律乗院・蓮華院は単立と山内各院の宗派の統一は図れず,現在の根来寺は大伝法院境内を中心とした36万坪の境内をいう。松や杉の老樹の中に立ち並ぶ大小堂宇は光明真言殿・庫裏・多宝塔・大師堂・大伝法堂・不動堂など多数。多宝塔は墨書銘によると,室町初期の天長2年に計画し,文明12年より資材収集に着手,天文16年に完成と67年の歳月を費やして建立された。現存する多宝塔のうち最大で,大塔様式の研究上貴重な遺構とされ国宝指定。宝形造の大師堂(付厨子及び須弥壇)は国重文。明徳2年に彩色供養が行われており(弘法大師像胎内銘/県史研究7),室町中期を下らない建物と推定される。八角の不動堂(付厨子1基)は江戸初期建立で県文化財。また,奥書院の裏庭は,鬱蒼たる樹林を負った山腹斜面を利用し奇岩・怪岩を配した池泉式蓬莱庭園で国の名勝に指定されている。